隣で生きていく 3(最終話)

*直接的な表現ではありませんが、モブの死にネタがありますので苦手な方はご注意下さい*


「殿、少しお休みになられては……御前様も命に別状はありませんから御安心下さい」
 ぼんやりとした意識の中に聞こえて来たのは、かつて自分を診るのを拒否した医者の声。彼は政宗に休息を取るように勧めているようだが、政宗からの返事は無い。
 それが、自分のせいだ、自分が目を覚まさないからだと気付いた幸村は。
 重い瞼をゆっくりと開けた。
 視界の端に、医者がこちらに頭を下げ、部屋から去っていく姿が映る。
 炎を放出した後、幸村に記憶はない。目覚めたここは、政宗の城の、彼の寝所のようだ。幸村も普段からかなりの時間を過ごしている場所で。そこに戻って来ているのだ、という事実は。幸村の心に小さな安堵をもたらした。
「まさむねどの」
 肩の刀傷には包帯が巻かれていて。すぐ傍には、厳しい顔をした政宗が胡坐をかいて座っている。
 彼は幸村が目覚めたのを知ると、少し表情を緩めたようだ。
「悪かった、な。企みを見抜けなかったオレのミスだ。そのせいであんたに怪我をさせた」
 その言葉に、やはり最初からあれは仕組まれた事だったのか、と知る。
「……アンタに、あんな策を提案したのは誰、だ」
「……」
 あの若者は、確実に首謀者ではないだろう。それ故に告げるかを悩んだ幸村に。
「オレは部下を掌握しなけりゃならねえ」
 政宗のそんな声が降って来る。それを受け。
 幸村は閉じていた口を開いた。

「そう、か」
 あの年若い兵の名を告げると。政宗はぽつりと一言返しただけで。特にその兵に呼び出しを掛ける訳でもなく。
 その態度に違和感を覚えた幸村は。
「……あの者は、どうなったので?」
 そう尋ねていた。
「……」
 すると、今度は政宗の方が暫し沈黙し。少しの静寂が二人の間に落ちた後。
 政宗の唇から紡がれた言葉、その内容に。
 幸村は大きな衝撃を受けた。

「……アイツは、死んだ。アンタが率いてた軍の連中に、あの屋敷は空だった、とうその報告をして。軍にオレの方の援軍に回るように、と伝えた後。自分はアンタが戦ってる屋敷に、一人で向かったようだ……アイツにはオレ達のような力は無い。……多勢に無勢で生き残るほどの力は……だから、あの屋敷で果てた」

 謀反の制圧自体は無事に終わり、奥州の憂いは一つ減った、とは聞かされていたけれど。
 幸村の心が晴れる事は無く。
 怪我の療養の為、気晴らしに槍を揮う事も出来ず、ただ政宗の寝所で呆と過ごす日々を送っていた。
 格子窓を開け、何とはなしに外を眺めていると。
 風に乗って、鍛錬場で汗を流しているらしい兵達の声が、幸村の耳に微かに響き。
 それに刺激されるように、共に鍛錬場で過ごした事もある、あの年若い兵の事を思い出していた。
 城を発つ前に、彼が言い掛けた内容が甦る。
 あの時、彼は多分。政宗と離れて良いのか、と言いたかったのではないか。
 けれど自身も幸村を陥れる策に関わっている身としては。一度止められてしまえばもう、声にするは叶わなかったのだろう。
(あの者は……俺が奥州に嫁いで来なければ……)
 戦に出れば、当然死とは隣り合わせで。皆ある程度の覚悟は決めているだろう。だが。幸村という存在が、伊達の中になければ。
 前途ある若者が、謀反の制圧で命を落とすなど無かった筈で……。
 幸村の心の奥底に小さく落ちたままだった影。それが確実に、深く、濃く、なって行く。
(……もうすぐ政宗殿が戻って来られるというのに、こんな気持ちではいかぬな)
 あの日以来、政宗は出来る限り幸村の傍に居る、と決めたようで。政務の合間、昼餉を取る短い時間でも、この場所に戻って来る。
 沈んだ顔をしていては、彼に心配を掛けてしまう、と。
 幸村は自身の心に落ちた影を振り払うように、首を振った。


『お殿様と御前様にどうかお目通りをお願いしたく』
 そう尋ねて来ている人物がいる、と。小十郎が政宗と幸村に伝えて来たのは。既に陽も落ち、空が暗く染まっていく時刻だった。
「誰だ?」
「……どうやら、先日謀反の制圧の際に命を落とした兵の母親のようです」
「っ」
 反応したのは幸村で。
 あの若者は自分のせいで命を落としたのだ。自分は伊達家全体に認められての正室ではない。むしろ重臣達には殆どその存在を邪魔だと思われているだろう。そんな人物の為に。そんな人物と伊達家の者との板挟みになって、愛する息子が命を落としたのならば。責めたいという気持ちはあるだろう。それを受け入れる気は幸村にはあったが、やはり覚悟は要る。
「ねえとは思うが、アンタを詰る様な事はオレが許さねえから安心しな」
 政宗はない、と言ってくれたが、母親の心情を考えると。そうは思えず。
 身を固くした幸村を、政宗の腕がその胸の中に抱き寄せる。
 責められる事自体は構わぬのでする、ただやはり、肉親を失った者の怒りを考えると、と呟き。幸村は政宗の温度に縋るように、彼の背に手を回した。

 目通りの場を設けるか、という小十郎の問いに政宗は首を横に振り。
「ここでいい」
「承知しました、呼んでまいります」
 程なくして若者の母親は、寝所へと姿を見せた。

「お殿様、御前様。この度は私の息子が御前様の御命を危機にさらす様な真似をしてしまい、大変申し訳ありません」
 幸村の予想に反し、若者の母親の口からまず出たのは。
 そんな謝罪だった。

「本当はもっと早くにお詫びに来るべきだったのですが……御前様の御怪我が治ってからの方がとも考え、遅くなってしまいました」
 あの謀反の制圧の日から、既に半月が経ち。幸村の肩の怪我は、もう包帯も取れ完治したと言って良い状況だ。彼女はどこからかそれを聞き付けて来たのだろう。
「……あの子があのような行動に出たのは、私のせいなのです。それだけは御二人に聞いていただきたく」
 深く頭を下げた彼女に。政宗が話の続きを促し。
 母親は、静かに話し始めた。

 彼女は病を患っていて。その薬代はかなりのもので。早くに夫を亡くした為、その薬代の負担は全て一人息子であるあの兵が担っており。そんな中、その薬代と上質の薬を工面する、という誘惑に負け。彼女の息子は自分の主たる政宗の意志に反する策に乗ってしまったらしい、と。
 あの日、家に残された文に記されていた、と聞かせてくれた。更にそれには、自分が頼まれたのは幸村と軍を分離させるまで、その後は自分の心のままに動く。だから生きて帰れないだろう、とも書かれていて。最初から覚悟を決めていたようだ、と。
 語る彼女の口から、最後まで幸村を責める言葉が出る事は無く。
 それ所か。
「残念ながら息子を策に引き込み、御前様に仇なした方の正体は、文からでは読み取れませんでした」
 お役に立てずに申し訳ありません、と何度も頭を下げられた。
(やはり、あの時俺に政宗殿から離れても良いのか、もしくは離れるな、と伝えたかったのだな……)
 文と、彼の母親が口にした内容から、あの若者はあの謀反の制圧の日、御前を亡き者とする策を立てた側にありながらも、幸村を気遣っていたのが感じられ。先日浮かんだ自身の考えに間違いはなかったのだ、と理解する。
 母親はまだ床に頭を擦り付けるようにして平伏したままで。
(俺の存在がこの者にとって大切な者を……)
 その真摯な様子は。彼女の血を引いていたあの彼が、生きていたらその内、政宗にとって良き家臣となったのではないかと連想させられて。
 そんな命を奪ってしまったのだ、と改めて感じ。
 責められるよりも、幸村の胸を抉った。


 怪我が治り、以前のように部屋の外で過ごす時間も増えてきて。
 城の中がどこか張り詰めた空気を持っているのに、幸村は気付く。
 最初、その理由は分からなかったが。
 ある時、政宗が政務を行っている部屋の前を通りかかった際。一番の家臣であるはずの小十郎を、彼がらしからぬ強い口調で怒鳴りつけているのを聞いてしまい。
 城の空気の理由を悟った。
 政宗は、あの謀反の制圧の際に、幸村を陥れようとした者、その中心人物を見付けられない事に苛立っていて。
 その苛立ちが周囲に伝わり、城全体が緊張感を孕んでいるようだった。
 政宗は、幸村の傍に在る時はそのような態度を微塵も見せなかった為。部屋で過ごしてばかりの頃には気付けなかった。
(……俺がこの城に居る事に、意味は……)
 彼が自分の前ではいつも通りだったのは、あの日の事を出来るだけ思い出させないように、傷付けない様に、という心からだろう。自身の存在が、政宗に、部下に不信を抱かせる事になっている上に、気を遣わせてしまっている。
 妻という存在は、政に疲れた彼を癒す為のものでもあるだろうに。今の自身は全くその役目を果たせていない。むしろ彼を疲れさせるだけの存在となってしまっている。
 それに自身のせいで、彼の配下の未来ある若者の命も奪ってしまった。
 そんな己が、この城に居て良いのだろうか。

「御前様、政宗様がお呼びです」
「?」
 この時間、政宗は政務をこなしている筈。あの謀反の討伐以来、城内はともかく、国としての奥州の情勢は落ち着いていて。急な用件もあるとは思えない。だから首を傾げたが。
 政宗から呼ばれていると告げられれば。それに応えない訳ないはいかない。
 伝えて来たのが、余り見掛けない者だったのが少し気になったが、配下の者の休みや入れ代わりもあるだろう、と。考え、違和感を押し込めて、分かったと返した。

(こども?)
 政宗の元に向かう途中、小さな子の泣き声が聞こえた気がして。使用人の子供だろうか、等と思いつつ足を進めると。その先でやはり子供が座り込み泣いている。政宗が居る部屋までは後少しだったが、子供を見て見ぬふりをするなど幸村には出来ず。
「どうしたのだ?」
 と声を掛けていた。
 その子供が幸村を見上げた瞬間。
「!」
 背後から異音が聞こえ。振り返り、その異音の正体を悟った瞬間。
 反射的に幸村は、子供を腕の中に庇うようには抱き締めていた。
 音は、傍に在る小屋に立てかけてあった材木、それが倒れて来たものだった。
「ぐっ」
「?!」
 もろにぶつかる事を覚悟して、目を閉じたが。その衝撃は無く。代わりに覚えのある気配をすぐ傍に感じ。
 聞こえてきた呻き、その声はやはり耳に馴染んだ彼のもので。
「まさむねどの!」
 目を開けた幸村の視界に映ったのは、どこからどれだけの早さで駆けて来たのか。材木から幸村と子供を庇い。腕から血を流している政宗の姿だった。
「誰か医者を!」
 幸村が声を張り上げると。聞き付けた使用人たちが顔を覗かせ。そのうち何人かが医者を呼ぶために走り出したようだった。腕の中の子供は、先程よりひどく泣き出していて。
 その子供をあやしつけながら、政宗の方を窺い。
 幸村は自身の血の気がすう、と引いていくような感触に襲われていた。

「アンタの方が怪我人みてえな顔してるぜ。大した事ねえから安心しな。アンタのこの前の怪我の方がよっぽど酷かっただろうが。それにこれ以上の怪我オレがする事なんて、アンタと戦場でやりあった時何度もあっただろ」
 それを見てんのに何を今更、とでも言いたげな政宗に。幸村は心の中だけで、そうではない、あの時とは、かつて敵国の将として対峙していた時とは違う、と首を振る。
 政宗の言う通り、彼の怪我自体は掠り傷で。手当を終えた医師にも全く心配ないと言われていたが。それは幸村を安心させる事にはならなかった。子供はやはり使用人の家族で。顔を真っ青にして何度も頭を下げる母親に、この子のせいではないと政宗と幸村共に言い聞かせ、既に下がらせていた。
 幸村が顔色を変えている理由。
 それは自分がこの城に留まっていれば、自分の命を狙う者が存在する以上。それが政宗の命、それすらも奪ってしまう可能性がある、と気付いてしまったからで。
 自身の身が危険に晒されるだけならば耐えられる。幸い自分には武将としての力がある。だが。この城に居ては、政宗の妻として彼の庇護を受けて居たままでは。
 自分を庇おうとする彼を、危険に晒してしまう事を、身を持って理解してしまった。
 今回は掠り傷で済んだ、でも次もそうだとは限らないのだ。
「……にしてもオレの怒りは分かってるだろうに、まだアンタを傷付けようとする奴が居るとはな……」
「!」
 先程、材木が倒れた際に小屋の方から何者かが走り出て行く気配を感じていた幸村だが。それは敢えて黙っていた。ただの事故にした方が、政宗の心に負担を掛けずに済む、と考えて。だが彼の方も、ただの事故ではない、と気付いてしまっていたようだった。
 政宗は幸村を呼んではいないらしかったから、それも当然かもしれない。幸村を呼びに来た者は、城に仕える者ではなかったらしく。既にその姿を消していた。

 政宗が少し眠る、と告げ床に横になり隻眼を閉じて。 その枕元に正座し、幸村は彼の顔を眺める。
 軽い怪我、という割にはその顔には深い疲労が浮かんでいて。
 怪我よりも、あの謀反の制圧の日以来、苛まれてきた精神的な苦痛がその原因なのだろうと容易に分かってしまい。
 元凶である、自分が彼の傍に居て良いのかという気持ちがますます強くなり。
 膝の上に置いた拳を握りしめた。

(んっ)
 いつの間にか、自分も寝てしまっていたらしい。しかも感じる温度や体勢から察するに、どうやら政宗の隣で、その腕に抱き込まれている。彼が幸村を寝床に引きずり込んだようだった。ぼんやりとした意識のまま、その体温に心地良く包まれていると。
「アンタを……」
 絞り出す様な苦しげな政宗の声が降って来た。
(まさむねどの?)
 ごく、小さな声で呟かれる独り言のようなそれを聞き逃さないように耳を欹てる。幸村が目覚めているのを、彼が気づいているかどうかは分からない。気配に聡い彼だから、気付いている可能性の方が高いだろうが。目を開けては、彼が言葉を止めてしまう様な気がして。瞳を閉じたまま、続きを待った。
「アンタを、離したく、ねえ。だが、このままこの城にアンタを閉じ込めておいても、アンタの心も体も傷つけるばかり、だ。情けねえ事に、今のオレにはアンタを傷付けた奴を探し出す力も、部下を纏め上げる力すらねえらしい……」
 政宗の手が、幸村の髪を梳く。その優しい仕草に、幸村は彼に愛されている、と感じ。
 もう、充分だ。元より今の事態が、男であり敵将であった自分が、彼の妻として共に在れた時間が奇跡だったのだ。閉じ込められていたなど、思っていない。自分の意志で、政宗の傍に居たくてここに来たのだ。そして確かに幸せだった。だが。
いつも自信に満ち溢れていた彼に、こんな苦しげな告白をさせてしまう自分など。
 この場所には必要ない。
 政宗から伝えられた言葉を反芻し、幸村は自分の身の振り方を決めていた。


『アンタがオレから離れてえって言うんなら。……オレにはもう、それを止めるなんて出来ねえ』



 翌朝、共に朝餉を取る政宗は、昨夜の言葉が無かったかのようにいつも通りで。幸村も敢えて自分からその話題を振る気にはなれず、普段と同じように彼の隣で過ごしていた。
「政宗様」
 そこに、政宗に急ぎ目を通して欲しい案件があると小十郎がやって来て。
「他に急ぎの件はもうねえな?」
 小十郎が持って来た件にすぐに指示を出した政宗はそう問い。
「暫くは大丈夫かと」
 そう返した小十郎に対して、満足そうに頷いた彼は。
「なら少し城の外で休みを取る」
 そう宣言した。
 小十郎も特に反対せず。それ所か。
「そうですな、ここ最近お疲れ気味のようですから、そうされた方が良いでしょう」
 と賛成意見を述べた。
「城の外、でござるか?」
「ああ、勿論アンタも一緒に、だ。……予定より少し早く、あの道場が完成したと連絡があった。簡素だが、寝泊りが出来る部屋もある。そこで過ごそうと思ってな」
「!」
 彼との手合せは、幸村の魂を熱く燃え滾らせてくれる。この城に来て以来、一度も彼の手合せは叶っておらず。それが叶うのだと思うと、幸村の心は高鳴った。と、同時に。
(政宗殿と、手合せが出来る……それを思い出に俺は……)
 昨晩考えた身の振り方、それを実行する時期を決めていた。
 そんな幸村の胸の内を知ってか知らずか。政宗は小十郎に二人だけで過ごすつもりだからあの場所に誰も近付けるなと命令していて。
 手合せだけでなく、誰にも邪魔されない時間を過ごせるのだ、と知り。
 幸村は淡い笑みを浮かべた。

「競争しようぜ」
「望む所でござる!」
 道場まで馬でどちらが先に着くかを競いながら、駆ける。風を切って走るのは心地良く。幸村は城で沈んでいた心が、軽くなっていくのを感じ。また政宗の方もそれは同じだったようで。二人は子供のような笑顔で会話を交わしながら、目的地へと向かった。

「立派でござるな……それに広い」
「アンタとオレが手合せするんならこれ位は必要だろ」
 ほぼ同時に道場に辿り着き。幸村は完成したその場所を見て、その大きさに圧倒される。その大きさは、自分達が勝負するんなら当然だ、と笑む政宗に。幸村の胸に、ここに来る間は忘れていた痛みが甦る。
(……これは、政宗殿が俺との手合せの為に作らせたもの……だが今回の事が終われば……いや、俺相手ではなくても)
 これだけ立派なものなのだ、自分との手合せ以外にも使い道はあるはずだ、と。幸村は浮かんだ考えを振り払った。
 政宗は、城での鬱憤を晴らす為にこの場所に来たのだろうから、自分も悩んでいる姿など、心に陰りのある姿など、ここに居る間は見せてはならないと言い聞かせて。

「どうする、着いたばっかりだが早速勝負するか?」
 政宗の問いに、勿論!と答えようとした幸村だが。
「っ」
 声に出す前に腹の虫が鳴ってしまい。かあ、と顔を紅くする。政宗はく、と抑え込んだような笑いを零した後。
「そういや昼時だな。先に飯にするか。材料は届いてるはずだ。アンタ料理は出来んのか?」
 と問うて来て。
「簡単なものなら」
「なら手伝いな」
 政宗は答えを聞くと、幸村の手を引き歩き出した。

「誰にも邪魔されたくねえから、飯もオレ達で作ろうと思ってな」
 道場のすぐ横に、小さな屋敷が作られているようで。政宗が向かったのはその中の厨房だった。
「おお、野菜も肉も沢山ありまするな!」
「野菜は小十郎が城の畑で作ってる奴だ。先に運ばせてた」
「流石片倉殿の野菜。良く育っておりますなあ」
 政宗は国主という立場に似合わず、料理が得意なようで。器用な手つきで素早く野菜を切り、鍋に入れて味付けて行く。幸村はそんな彼を殆ど補助的に手伝うのみだった。
「政宗殿の料理の腕は見事にござるな!」
「簡単なものしか作ってねえぜ?まあ材料が良いからな」
 政宗の作った料理を、二人で食べる。政宗が手ずから振る舞ってくれたもの、という事と、城からの解放感も相俟って。
 幸村の口には普段の食事より何倍も美味しく感じられた。

「腹ごなしに手合せと行きましょうぞ政宗殿!」
「OK。……アンタとの勝負が腹ごなしで済むとは思えねえが、手合せ自体には賛成だ」
 軽い足取りで道場へ向かってかける幸村を、政宗も追い掛ける。
 道場に着き、着物が邪魔にならないように、と襷をかけて。政宗は木刀、幸村は用意されていた普段戦場で使っている槍と同じくらいの丈の、丈夫そうな棒を二本手にして、向き合った。

(本物の武器ではないとはいえ、やはり政宗殿と打ち合うのは心が熱く騒ぐ……!)
 至近距離で政宗の振り下ろした木刀を弾き返し、後ろに飛んで一旦体制を立て直しながら。幸村は彼との手合せ、その楽しさに笑む。それは相手も同じなようで。幸村の視界に映る政宗も、勝負を楽しんでいると感じさせる笑みを浮かべていた。
「HA!」
「!……あっ」
 政宗の声と共に、再び木刀が振り下ろされ。今度もそれを受け止めようとした幸村だが。中々勝負が決まらず打ち合っていたお蔭で垂れる程の汗をかいていて。運悪く床に溜まったその汗で滑ってしまい、盛大に尻餅をつき。その際に武器代わりの棒も手放してしまい、政宗の木刀をまともにその体に喰らう事を覚悟し目をきゅっと瞑る。だが、木刀の感触は訪れず。
「っ、Sorry。体の方は止めれなかったぜ」
 幸村が転んだのに気付いた政宗は、咄嗟に木刀を手から離したらしく。しかし体の勢いは制止出来なかったようで。
 二人は道場の床で折り重なる体勢になっていた。
「折角の勝負をこのような形で止めてしまい申し訳ござらぬ」
 中途半端に中断させてしまった事に、幸村が謝罪する。
「まさむねどの?」
 暫し待ってみても、政宗から言葉は無く。不思議に思い彼の顔を見上げると。
 政宗は何処か遠くを見るような視線で、幸村を見つめていた。
「如何された?」
「……何かこんな汗だくでこの体勢ってのは、『あの時』みてえだな」
「あの時?」
「アンタとオレが初めて体を繋げた時。まああの時は汗だけじゃなく血も流してたが」
「!」
 政宗の言葉が、いつを示しているか気付き。自分もその時を思い出してしまい、幸村は羞恥に全身を紅く染める。
(あれが無ければ、政宗殿が俺を娶るなど考えなかっただろうな)
 羞恥の中でそんな事を考えていると。
「ま、政宗殿?!」
 幸村に覆い被さったままの政宗が、首筋に舌を這わせて来て。その感触にぞくりと体を震わせながら。動揺の声を零す。だが政宗は構わず首筋を舐め続けながら、幸村の身に付けている袴に手を掛け。器用にそれを脱がしてしまった。
(ど、道場でなどっ……それにこんな汗にまみれた体では)
 意図を悟り、この場所では、このような状態では、と抵抗しようとした幸村だが。ふっと。
 自分が彼と過ごせる時間はもう長くないのだと。彼と体を繋げ、彼に愛される機会も残りわずかしかないのだと、気付いてしまい。
 政宗を押しのけようとしていた手を力なく床に落とし。少し悩んだ後。
 彼の背へと回した。


「んっ」
 政宗の手と舌が、幸村の肌の上を這う。快感を引き出そうとするその動きに、ふるりと体を震わせながら。あの時も確かにお互い汗にまみれてはいたが。
(今のように優しく体に触れられる事は無かったな……)
 別れが近いのだ、彼と過ごした時間は出来るだけ自分の心に刻み込んでおきたい。そんな想いと共に、彼と初めて繋がった時の事を思い起こす。

 あの時、政宗の瞳に自分への情など無く。
 ただ戦場で消化不良の熱を発散する為に彼は自分を抱き。己も抵抗しなかった。敵国の大将に組み敷かれるという武将としては屈辱的な状態に抵抗しなかったのは。
 ……心の奥底で彼への想いを秘めていた、からだ。
 自分でもなぜ抗わないのか、そんな気持ちが起こらなかったのか不思議だったが。今ならそれが分かる。
 この身はずっと密かに彼を想っていたから。
 あんな状況でも彼に求められるのが嬉しかったのだ。
 だが政宗の方は。
 きっと誰でも良かったのだと思う。身に溜まった熱を吐き出せるのなら。
 抱かれた時の事を鮮明に覚えていながら、ずっと見なかった振りをしていた事がある。
 今の政宗は気持ちを伴って自分を求めてくれていて。それを否定する気などは無い。だが。
 政宗が求めているのは『自身の半身』であって。『幸村本人』ではないのではないか。
 自分はきっと、この身が政宗の半身ではなくても。彼に他に半身が居たとしても。彼への想いを抱き続けていたと思う。
 だが政宗は。
 この身が彼の半身では無かったら。自分への感情など全く抱かなかったのではないか。
 今までずっと目を逸らして来たけれど。
 彼と繋がり、突き上げられながら伝わって来た感情には。
 強い情欲の中に「戸惑い」が少しばかりあったように思う。その戸惑いという感情は幸村も抱いたものだったが、彼とはきっと理由が違う。
(俺にも困惑はあったが、それは政宗殿にではなく、初めてのあの感触に対して、で。この身が政宗殿の半身なら、何と嬉しいことかと思った俺とは違い……)
 あの時、政宗が幸村へ抱いたのは。
「何でアンタなんだ」
 選りによって敵国の武将などが自分の半身など、というものだったのではないか。
 それを裏付けるように、その後二人の関係に暫く変化は無く。
 変化を齎したのは、幸村の縁談話、だった。
 半身ならば、他の者に渡す訳には行かない。その気持ちだけで、彼は上田に現れたのではないのか。
 あの時、自分を攫った政宗は、『真田幸村』ではなく。『自分の半身』を求めてやって来たのだと今更ながらに思う。自分が政宗の半身でなければ。自分はあのまま信玄に薦められた姫と縁を結んでいた可能性が高い。彼の、政宗への想いを抱え続けて。
 奥州に来て、彼に愛されるのが当たり前の日々を過ごして。そんな事はどこか遠いものとなっていたけど。
 別れを決意したからか。
 今まで無意識に目を逸らしていた、あの時の彼から感じた僅かな戸惑い。それが鮮明に描き出されていく。
(……俺が離れても政宗殿は)
 思えば政宗は強引に攫って気はしたものの。重要な場面で幸村の心を無視する事は無かった。奥州に輿入れしたのも、政宗の傍に居たい、という幸村の意志で。
 彼は自分が首を横に振れば、この身が彼の半身であろうと正室に据えるなどという事は無かったのだと思う。自分が輿入れを拒否すれば、追い縋る事も強引に迎える事も無く。きっと彼はその後伊達家の為の縁をどこかの姫と結んでいたであろう。
 そんな彼だ。暫くは半身との別れを引き摺るかもしれないが。そう遠くない未来に。半身など最初から居なかったのだと自身を納得させ、国主としての責任をしっかり果たして行くであろう姿が容易に想像でき。
 去って行こうとしている幸村の心を、少し楽にした。勿論、彼の心に自分が残らないのは寂しいという気持ちはあり、彼と離れる事に胸は痛むのだけれど。

「っ!」
 胸に、ビリとした痛みを感じ快楽からでは無い声を上げる。どうやら政宗が、胸の尖りをかなり強めに噛んだようだだった。
「まさむねどの?」
 不機嫌そうに顔を歪める彼の態度、その理由が分からず首を傾げると。
「……アンタさっきから全然集中してねえ。こっちはアンタを求めて抱いてんだ。オレの方を見やがれ」
 そう告げられて。
(……ああ、この独占欲は俺が貴殿の半身であるが故のものであると分かっているが)
 それでも嬉しい、と。
 想い人に求められているのだ、と。
「申し訳ござらぬ。貴殿と、政宗殿と初めて契った事を思い出しておった故」
 そう伝える。
「……オレに関する事ならまあ許してやるが。これからはこっちに集中しな」
「ひぁ、ん!」
 少し不機嫌さの和らいだ政宗の手に、中心を柔らかく揉み扱かれ、更に噛まれた乳首を優しく舌で舐め回されて。幸村の唇から、先程の痛みから来るものとは違う甘い声が零れる。もうすっかり幸村の感じる場所を完璧に覚え込んでしまっている政宗。そんな彼が中途半端にその部分を刺激するものだから。
「あ、あ」
 幸村はいつしか彼から与えられる快感を更に求めるように。自分から緩やかに腰を動かし。彼の手に自身を擦り付けていた。
「いやらしくなりやがって……まあオレが変えたってんなら悪くねえがな」
「ぁあーっ」
 玉をふにふにと弄られながら同時に先端に爪を立てられて。どくり、と二人の体の間で幸村の中心が弾ける。
「あ」
 勢いよく吐き出されたそれは、幸村の顔にまで飛び散り。顔を汚したその白濁を政宗に舐めとられ。
 幸村は自分の体のはしたなさに頬を染めた。
 腹に落ちた白濁は政宗の指に掬い取られ。大きく足を開かされた幸村の最奥へと塗り込められて行く。中の最も感じる部分を指の腹で擦られ。
「ぁあ、んっ」
 幸村は身を捩りながら喘ぎを漏らした。
 くちくちと僅かに湿った音を立てながら、尻穴を掻き回される感触。既に充分解れているように思えるのに、政宗は指を引き抜く様子は無く。
「はぁ、あ、ぁああ」
 中心は再び勃ち上がり、幸村は指だけでまた絶頂を迎えそうになっていたが。
「まさむねどの、を下され…っ」
 やはり達するのならば、一人だけ二度もではなく。彼のものに貫かれながら、あの幸せを感じながら、出来れば二人同時に、と。荒い息の中で、彼の背に足を絡めながら、そう口にしていた。
「……っ!指だけでイかせてやろうと思ってたのに、アンタからその言葉聞いちまったら、オレの方が我慢できなくなっちまうな」
 一旦離れ、袴を脱ぎ、着物の前を寛げた政宗が。幸村の足を肩に抱え上げる。
「く、ぁあ!」
 既に熱く硬く育っていた政宗自身に一気に貫かれ。幸村は一際高い声を上げ。繋がった部分から快感と共に、一つになる事で得られるあの幸福な感触が広がっていく。
 自分の居場所はこの奥州にはないと、既に去る事は決意していても。
 この感触を。彼に愛される幸せをこの身で知る事が出来たのだ。
 輿入れ自体に後悔はない。
 この奥州で、政宗の傍で過ごす時間は。この身を、心を。
 確かに満たしてくれた。
 そんな想いが彼に伝わればと良い。
 口に出しては泣いてしまいそうだから。泣いてしまえば自分が彼との別れを惜しんでいる心を気付かれてしまうから。
 別れの決意が鈍ってしまいそうだから、と。
 幸村は自身を突き上げる政宗にしがみ付き、彼にただ口付けた。



「……」
 気付けば寝床の上で。手合せと交わりで汚れていた幸村の体は綺麗になっている。
(もう、朝、か)
 確か道場入ったのは昼過ぎだったと思うが、あの後眠りこけてしまっていたようで。外から差し込む光は、朝日のそれだった。
「まさむねどの?」
 部屋を見回すが自分をここに運んでくれたであろう人物は見当たらない。彼の姿を求め、まだ痛む腰を庇いながらのろのろとした動きで部屋の障子を開けた所で。
 膳を抱えこちらに歩いて来る政宗の姿が、幸村の視界に映った。
「起きたんなら丁度良かった。朝飯食おうぜ」
 アンタまだ腰痛むだろうと思ってここまで持って来た、という言葉と共に、政宗が寝床の傍に膳を置く。膳からは汁物の良い香りが漂っていて、その匂いに空腹を自覚した幸村は政宗に礼を告げた後、膳に手を付けた。

(……普通の夫婦というのはこんな感じなのであろうか……)
 政宗と二人、共に料理をして共にそれを食べて、昼は手合せをし、夜は共に寝床に就く。手合せ以外は、まるで昔幸村に半身の事を教えてくれた下女、彼女が話してくれていた家での夫との生活と良く似ている気がして。
(……国主でも武人でもない、ただの民であったなら……ずっと一緒に居られたのであろうか)
 ついそう考えてしまったが。
 すぐにそれを振り払った。
(武人でなかったら、そもそも出会ってすらおらぬ)
 自分と政宗を出会わせたのは、あの戦場で。自分が武将でなければ、政宗が奥州の国主でなければ。
 彼が戦で消化しきれなかった熱を治める為に自分に手を出していなければ。
 この身は彼とここまで深く関係しなかっただろう。
 それに。
(俺はともかく、政宗殿が普通の民など想像できぬな)
 奥州の王である彼が、平民になった姿など空想の中ですら形にならなかった。

「明後日、城に戻る」
 アンタとまだまだ二人きりで過ごしてえが、いつまでも城を空けてる訳にもな、とぼやく政宗に。
「そうですな、余り長い間留守にして居ると、片倉殿の雷が落ちましょうぞ」
 そう軽口を返しながらも。
 幸村は自分が今笑みを作れているか、不安だった。

「佐助」
「……頼まれたもの、持って来たよ旦那」
「ああ、すまぬ」
 道場の中庭、政宗との手合せの後、従者の名を呼ぶと。どこからともなく姿を現した相手から、小さな巾着に入ったそれを受け取る。政宗は一足先に湯を浴びに行っていて。共に来るように言われた幸村は。息が上がってしまいましたので少し呼吸を落ち着けてから参りまする、と彼に告げていた。
「出来る限り抑えたけど完全な無味無臭って訳じゃないから、気付かれるかもしれないよ」
「体に害はないのだな?」
「当然」
「ならば大丈夫であろう。……佐助、また明日の夜に」
 頷いた忍が姿を消し、その気配が完全に消えたのを確認してから。
 幸村は政宗の元へ向かった。

「湯を浴びたばかりでござろう?」
「後からまた浴びりゃいい。それに明後日の出発考えたら、明日はアンタを抱けねえだろうから。今のうちに味わっておきてえんだよ」
 湯浴み後の体を押し倒されて。
 政宗にそう耳元に囁かれてしまえば。
 これが最後の彼との交わりなのだと気付いてしまえば。
 幸村には彼に身を任せるという選択肢しか残っていなかった。

「離れ、たくねえ」
 その日の政宗は今までになく貪欲に幸村を求めて来て。
 既にお互い何度も達し、精もその色を失くすほどだったが、二人は未だに繋がったままだった。
 政宗が絞り出すように吐いた言葉に、幸村も同じ気持ちで。でも散々啼かされたお蔭で声が枯れていて。音にする代わりに小さく頷くと。
「んっ」
 政宗から口付けが降って来る。
 繋がったまま何度も口付けられて。その甘さを感じながら。
 幸村は瞳を閉じ、意識を手放した。

(子供の声?)
 城に戻るつもりはなかったのに、自分が今居るのはどう見ても政宗の城で。一体いつの間に、と思いつつ声が聞こえた方へ足を進める。
 この先は確か政宗が普段政務を行っている部屋ではなかったか。そのような場所になぜ子供の声が、と考えていると。
「ちちうえ〜」
 子供が誰かをそう呼び、それに応えた声に気付いて歩みが止まった。
(……政宗殿の御子)
 どこの姫との御子なのか、いつ生まれたのか、自分は全く聞かされていない。
 立ち尽くしていると。
「あ、ははうえだ!」
「!?」
 子供が自分に駆け寄って来て。そう声を掛けて来た。しかも。
(……ああ、そうか。夢だこれは)
 子供は自分の幼少時にあまりに似ていて。
 これはきっと、自分が政宗の傍に居たい余りに作り上げた願望、それを夢という形で見ているのだろう、と結論付けた。
 自身が女子になりたいなどと思った事はないが、政宗との子がなせたなら、という気持ちは。心の奥で抱えていたのかもしれない。
 子供は自分に似たその子だけではなく。政宗の隣には、彼の幼い頃はきっとこんな容貌だったのではと思わせる子供。自分に似た子よりも幾分年上に見えた。
「弁丸、母上連れてこっちに来い。団子無くなっちまうぞ」
「あにうえ、弁の分食べちゃダメっ。ははうえ、いこ?」
 政宗に似た子供の言葉を受け、弁丸と呼ばれた子供が幸村の手を引いて歩き出し。
 こちらを見つめる政宗が、柔らかく笑んでいる。
(……こんな光景、現実であるはずがない)
 だが分かっていても。起きた時に虚しさを感じるだろうと知っていても。
 この幸せな夢から、積極的に目覚めようとは思えず。
 幸村は幼い自分と同じ名前を持つ子供を抱き上げて、政宗たちの横へ腰を下ろした。

(え……)
 意識が現実に浮上した際、感じると思っていた虚無は無く。かわりに訪れたのはあの満たされた感覚。そしてその理由は直ぐに知れた。
(……繋がったまま眠って……)
 政宗に組み敷かれていた体勢から、彼の体の上に自分が居る形に変わっていたが。中にはまだ政宗のものの感触があり。
 その繋がっている幸せに包まれて、虚しさは感じなかったのだ。
「……離れ難くてな。アンタ良く寝てたな」
「……とても幸せな夢を見ておった故」
「そう、か」
 詳細を話すと今度こそ虚無感が募ってしまうだろうから、ただ幸せな夢だったと告げる。
 幸村の髪を指で梳く政宗は、内容を尋ねる事はせず。ただそれに頷いただけだった。

(明日の朝、ここを発つと言っておられたが)
 幸村は夜が明ける前に、この場所を出ていく事を決めていて。今その為の下準備をしている所だった。といってもやる事は一つだけ、なのだが。
 目の前にある二つの湯呑、そのうちの一つに。佐助から受け取った巾着の中身を手早く注ぐ。湯呑はここで政宗が使っているもので、食事の際に茶を入れるのはこの場所に来てから幸村の仕事だ。
 政宗は、幸村のすぐ後ろで夕食を器に盛っていたが、こちらの行動には気付いていないようで、それに小さく安堵した。

「……」
 食事の最中、幸村の淹れた茶、それが入った湯呑を手にした政宗が。動きを止める。
 暫し湯呑の中を眺めていた政宗だが。
 結局何も言わず、彼はそれを口に含んだ。
(……政宗殿は恐らく気付いておられる……)
 自分が茶に入れた薬の事も、自分のこれからの行動も。
 だがそれを強引に止めようとは思っていないのだろう。恐らくそれが幸村の為だと考えて。だからきっと。
 薬が入った茶を分かっていながら飲み干した。
 政宗へと盛った薬は、睡眠を誘導するためのもので。強いが体への害はなく。
 それは、幸村が自分の決心を鈍らせない為に。佐助に調合させたものだった。

「明日は早ぇ。ゆっくり体安めとけ」
 床に就きながら呟く政宗は、薬のせいだろう、既に少し眠そうに見える。強力な薬だが、独眼竜は薬に耐性あるだろうからすぐには効かないと思うよ、と佐助が言っていた通りに。彼が熟睡するまでには後少し時間が掛かりそうだった。
 政宗に抱き込まれ、彼の腕の中でおやすみなさいませと告げた幸村だが。これからの事を考えると、行動を起こすまでにはまだ時間はあるものの眠気は訪れず。ただ形だけ、目を瞑り。
 時が経つのを。
 政宗が完全に眠りに落ちるのを待った。

「……まさむねどの」
 呼びかけても彼が目を覚ます様子が無く。普段はこれくらいの大きさで声を掛ければすぐに目を開けるから、薬が効いているのだろう。
 政宗の腕の中からそっと抜け出し、起き上がり。
(佐助はもう来ているな)
外に自分の従者の気配を感じて、幸村は身支度を整え始めた。
「まさむねどの」
 着替えた後、もう一度彼に呼び掛けるが良く眠っている彼からは当然返事はない。
 勿論返事を求めて声を掛けたのではなく。
 彼を薬で眠らせたのは。
 出ていくのを彼に気付かれては。
 以前寝床で彼が呟いた言葉から、強引に自分を引き留めはしないと分かってはいるが。
 彼の声を聞いていては。その瞳に自分が映っている状況では。
 自分が彼と離れる事が出来ないと思った故だ。
「もう、お会いする事はありますまいが……貴殿の幸せを願っておりまする」
 政宗の頬に触れながら、別れの言葉を紡ぐ。
 奥州に輿入れして、彼の傍で暮らして。
 幸村にとって政宗はもう、倒す相手ではなく。
 ただ心を向ける想い人に、守りたいと思う相手となっていて。
 彼の周囲の者達に歓迎されていない自分が彼の傍に居ては、この身を守ろうとしてくれる彼を危険に晒してしまう可能性が高い。この前のように。
 自分の身に降りかかる不幸だけなら、彼が自分に想いを向けてくれている、その事実だけあれば耐えられる。
 だが、この身が彼にとって重荷になるのは許せず。
 彼への想いゆえに。
 だから自分は彼の傍から去るのだ。
 そんな相手と戦場で会ったとしても、もう刃を交わすなどできそうになかった。
 それに奥州と甲斐は今同盟を結んでいて、そのお蔭でどちらの国にも攻め込んでくる国はなく、平和な日々を送っている。元は自分の輿入れの為に政宗が甲斐へ申し出た同盟だが。彼の元を自分が去っても、せめて彼が新たな相手を迎えるまでは、自分のせいで少し乱れてしまっている奥州の内政、それが落ち着くまでは。同盟が続いてほしいという気持ちが強い。
「お慕いしておりまする、これからもずっと」
(政宗殿はこれから俺以外に愛する人が現れるであろうが……この幸村は)
 ずっと、貴殿だけを想っておりまする。
 政宗の頬を両手で包み、自らの唇を小さな寝息を立てている彼のそれと重ねようとして。
 直前で止める。
 そこに触れてしまえば、彼への想いが溢れて身動きが取れなくなってしまいそうだったから。思い留まった。
 ゆっくりと体を離した際、政宗の顔に幸村の目尻から耐え切れなかった涙が零れ、眠り続ける彼の頬を濡らして行く。
「これだけは持って行く事をお許し下され」
 政宗はおそらく妻としての自分にこれを贈ったのだろうから、彼の妻でなくなる自分が持っていて良いものではないかも知れないが。政宗と過ごした時間、その証拠として手放したくなく。
 幸村は謝りながら、銀細工と簪を布に包んで懐に入れ、心を振り切るように勢いよく立ち上がって。拳で涙を拭った後、外に向かい駆け出した。

「佐助、片倉殿には」
「ちゃんと知らせた、多分俺様達と入れ違いで来るだろうから安心しなよ」
「そう、か」
 普段の政宗ならもし賊の侵入があればすぐ気付くであろうが、薬の効いている今は別で。そんな状態の彼を一人にしておく訳には行かず。幸村は佐助を通じて小十郎へ連絡を入れていた。
「旦那、ほんとにいいの?」
「何がだ?」
 道場のある場所から離れる為に歩みを進める。途中、馬を駆る男とすれ違い、馬上の人物の顔を確認して。政宗の方はこれで心配ないだろうと息を吐いた所に。佐助がほそりと呟いて。幸村は足を止めぬまま、忍びに聞き返した。
「……そりゃあの男の正室としてこれからも暮らして行くんなら、旦那が辛い思いするのは分かり切ってるから。俺様としては旦那の決断に賛成なんだけどさ……旦那は。旦那の本心は」
 ほんとにそれで良いの?
 あの男と離れて、良いの?
「……」
「あの男には奥州の国主としての立場がある。旦那が離れた後、ますます跡継ぎをって声は強くなるだろうね。旦那が居る間なら、あの男もそれは断っただろうけど。居なくなってしまったら、それを受けるかもしれないんだよ?それで良いの?」
「……それは奥州全体が望んでいる事。そうなったら、めでたいではないか」
 と笑む。
 だが。
「……旦那、ここまでくればいくら叫んでも、もうあの男には聞こえないよ」
 俺様の前まで、無理しなくていい。
 そう言われてしまえば。
「……さすけ、おれはっ……」
 零れ落ちる涙と共に、抑えていた本心が言葉として溢れ出していた。


「本当は……離れたくなどっ……。元より今まで共に居れたのが奇跡だったのだと分かっている。だがっ……。一度その奇跡を知ってしまっ、たっ。ずっと傍に居たいっ…だがこの身がこれ以上あの場所に居ては、政宗殿を危険に晒しかねぬっ……俺では、あの方を幸せには出来ぬのだっ……」
 佐助の胸に縋り、想いを絞り出す。
 改めてそれを口に出してしまうと、自分の言葉に身が切られる程の痛みを覚え。嗚咽が酷くなる。
「旦那、気が済むまで泣くと良い。全部吐き出して、疲れたら眠っちまいなよ。俺様が運んであげるから」
「……まだ、甲斐には戻れぬ」
「ああ、分かってるさ。暫く奥州で過ごすと良い。あの男の城とは離れた場所で、ね」
 佐助の言葉に安心して。
 その腕の中で幸村は泣き続け。いつしか眠りに落ちて行った。

「旦那、どうしたの?」
「……何でもない」
 奥州の、政宗が暮らす城からはかなり遠い町にある旅籠。幸村と佐助はその宿にしばらく滞在する事を決めていた。
 宿の膳に箸を付けた際、一瞬手を止めた幸村を見て、佐助が尋ねて来るが。膳自体に問題があるのではなく、自身の問題な気がして。
 幸村は特に何かあった訳ではないと告げ、再び膳に箸を伸ばした。
(……味が、余りせぬ)
 料理の評判が良い宿だった筈だ。実際、幸村の前に在る膳も、見た目も匂いも食欲をそそるものだ。だが。
 口に入れても味を感じられない。料理自体は全く問題ないように見えるというのに。
(……俺の心持の問題、か?)
 政宗の元を、自分の心を無視して離れた事で、体にも影響が出ているのかもしれない。
 しかしそれを佐助に悟られては心配を掛けてしまう、と。
 幸村は味のしない料理を無理矢理口に運んで消化した。

(そろそろ、城内では俺が消えたのが噂になって居てもおかしくなかろう)
 幸村が政宗の元から去って、五日ほど経つ。
 政宗が幸村の行方を追っている様子は今の所なく、これからもないだろうと考える。この身があの城を出たのは、政宗の為だが。政宗の方は、幸村が自分の身の安全の為に城を出ただろうと思っているだろうから。
 薬で眠っていた政宗に、自分の声は、本当の想いは聞こえていなかっただろうから。それも当然だろう。
 正室が居なくなったと分かれば、彼の家臣達、側室を取るのを薦めていた者達は、ここぞとばかりに政宗に話を持って行く事が予想出来。
 そして幸村が居なくなった今、政宗にそれを断る理由はない。
 奥州と甲斐の同盟の件もあり、しかも幸村は甲斐に戻っておらず、佐助がうまく立ち回っているお蔭で甲斐からの同盟破棄の手紙も届いてはいないだろうから。おおっぴらに自分が居なくなったというのはまだ公表できないで居るだろうが。政宗に近しい家臣達は事態に気付いている筈。
 そんな折、城に様子見に伺っていた佐助から。名家の姫達が城に集められているのを知った。
 姫達は政宗の相手として連れて来られたのだろう。
「っ」
 彼と姫との間に世継ぎが生まれ、奥州の発展を、と。それを望んで政宗の傍から去った筈なのに。
(……俺は弱い、な……いや醜い、というべきか)
 自分の半身である政宗が、別の者を愛そうとしている事実を知って。
 政宗のそのまだ見ぬ相手に、心の奥底で嫉妬の炎が僅かにだが燻っているのを感じた。
 その夜、政宗から贈られた簪と銀細工を見つめながら。
(……もう間もなく政宗殿はお相手を決めるであろう。俺のような歓迎されぬ者ではなく、祝福に囲まれながら迎えられる相手を……)
 それが政宗にとっても奥州にとっても幸いなのだと。
 今までも何度も心の内で繰り返したそれを、改めて自分に向けて言い含め。
 政宗は自身の半身で、心の奥底では誰にも渡したくないという気持ちを抱えていたけれど。彼の傍から去った自分にはもうそのような心を持つ資格などないのだと。もうこの想いは、断ち切らなければと。
 彼が相手を決めたら、甲斐に帰って。本来の自分に戻り。お館様の、武田軍の一番槍として戦場に生きて戦場で命を散らすのだ、と。
 幸村は自身に言い聞かせた。
 自分の彼を思う気持ち故に、命を散らす相手として政宗を選ぶ事は叶わぬのだ、もうあの瞳に自分の姿が映る事はないのだと思うと。勝手に嗚咽が零れてしまったけれど。
(極まれに、で構わぬ。ほんの少しだけで構わぬ。政宗殿の心に、この幸村と過ごした時間が残っていて。それこそ数年、いやこの先数十年に一度、でも構わぬ。政宗殿が俺との時間を思い出してくださるよう祈るくらいは。……許して下され)

 幸村の予想に反して、あの後、政宗の新たな相手が決まったというような話は聞かず。国主の婚儀の話などあれば、国中に噂が流れるであろうが、幸村の滞在する宿周辺にそのような噂は無く。佐助からもその話の続報はなかった。そしてその佐助が最近、幸村の従者であるはずの彼が、幸村の傍に居ない時間が多くなっている。
(もっとも佐助は俺の為の薬を作るのに奔走しているのかもしれんが)
 政宗の城から出て以来、口にするものに段々味を感じなくなっていった幸村だが。少し前からは大好物であるはずの団子などの甘味すら受け付けなくなっていて、まともに食事を摂る事が叶わず。
 体力も落ちてしまい、宿でほぼ横になって過ごしている。
 そんなある日。
 佐助が意外な人物を伴って戻って来た。
「何故……」
 相手は幸村に向かって平伏した後。
 苦渋に満ちた声である事を告げ。
 その内容に幸村は驚きで目を見開いた。



「甲斐に帰らずこの国に留まってるって事は、あの城に、政宗様の傍に居るのが嫌になって出て行ったわけじゃねえんだろ。だったら」
 頼む、政宗様に会ってくれ。

「かたくらどの?」
 幸村の元に訪れたのは政宗の右目、小十郎で。その苦渋に満ちた声に。戸惑う。
 自分が去った後の政宗に、一体何があったのか。
 佐助が持って来る情報に、政宗の異変を感じさせるものは今までなかった筈。
「政宗殿に、何かあったので?」
「……情けねえが、ついこの前まで俺は政宗様の変化に気付けなかった……」
 幸村が去った後も、政宗は国主としての役目を果たしていて。その上表向きの態度は今まで通り、幸村が輿入れしてくる前となんら変わらなかった為に。それに気付くのが遅れたのだ、と。
「政宗様は自分で料理をするくらいに食にはこだわっておられた。だから今回も自分の分は自分で作るというそれに俺は全く疑問を持たなかったんだが……それはどうも、変化した体調を隠す為だったようでな」
「?」
「普段たまに自分で厨房に入る事はあっても、毎日という事など無かったから、長く続くそれをさすがに不思議に感じて政宗様の様子を厨房の者に知らせるように頼んだんだが。その者の知らせによりオレが知ったのは」
 政宗様が毎日口にしておられたのは、塩も何もない握り飯と茶だけ、という事だった。
「え」
「問い詰めて返って来た答えは「味がしねえ」というもので」
「!」
 更にいつ頃からか、との問いに政宗が小十郎に向かって口にした時期。それは幸村が彼の元を去った頃と一致していた。
「味が無いなら何を食べても同じ、豪華な料理など必要ない、倒れる訳にはいかねえから、とただ栄養補給の為だけに無理矢理握り飯を口にして居られたようだ」
「旦那も、一緒の状況、でしょ。いや旦那の方がもっと酷い、かな。大好物の団子すら口に出来なくなってるんだから」
 今まで静かに傍らで話を聞いていた佐助が、初めて口を開く。
 確かに幸村も政宗の傍から離れて以来、食事に味を感じなくなっている。
「俺様、旦那の体調が戻るなら城に戻った方が、とちょっと思わなくはないけど……でもさ、城には旦那の事快く思わない連中が多いでしょ。それを考えると、ね」
 佐助がちら、と小十郎に視線を送り。それを受けた右目は元から翳っていた表情を更に暗いものにして唇を噛み締めた。
「……今城に戻っても、また辛い思いをさせてしまうだけだろう。残念ながら、「男の正室」を認めない連中は未だ少なくない。だから政宗様も探せ、とは連れ戻せとは口に出さずに居られるのだろう。元はといえば、おそらく「正室の身の安全」、それを考えて傍から離れるのを黙認したのだろうから余計にな」
 戻って来い、とは俺からも言えねえ。だが、せめて会ってくれねえか。それだけでもきっと幾分か……。
(まさむねどの……)
 政宗の為を思って、彼の傍を離れた。その行動が、自分だけでなく、彼にも悪い方への変化を与えているなんて。思ってもみなかった。
 彼が自分と同じように、食事の味を感じなくなっているなんて、考えてもみなかった。
 彼は、自分を「半身だから」というその理由だけで求めている、そう思っていたから。
 今会って、どうなるのか。苦悩を増やすだけでは、とも思ったが。
 小十郎が言うように、自分と会う事が政宗に良い変化を齎す可能性が少しでもあるのならば、自分の存在がまだ彼の役に立つ可能性があるのならば、と。
 幸村は頭を下げたままの小十郎に。
 そんな真似しないでくだされ、と告げて。政宗との再会を了承した。

「旦那、宿の主人が部屋移ってくれってさ」
「ああ、それは構わぬが」
 長い事同じ部屋に滞在している。それは宿側にとって都合が悪いのかもしれない、と部屋の移動を了承し。弱った体を佐助に支えられながら、新たな部屋へ向かった幸村だが。
「……この部屋、前の部屋より上等ではないか?」
「そうだね〜この宿で一番高い部屋みたい」
「な、なぜそのような場所に!」
「右目の旦那の指示みたい。金はあちら持ちらしいから気にしなくていいんじゃない」
「余計に気にする!」
「まあ良いじゃない。この国の主がお忍びで訪ねて来るんだから、普通の部屋じゃ不味いでしょ。ここなら奥まってて秘密の話にも向いてそうだし」
 幸村の弱り具合から、小十郎は幸村を城に連れて行くより政宗をこちらに連れて来た方が良い、と判断したらしい。政宗の訪問前に、宿宛てに文を送る、と言い残し去っていた。
「あんまり酷い状況であの男に会いたくないでしょ、旦那も。右目の旦那の話からだと、あの男は少なくとも倒れない程度の食事は摂れてる。旦那もせめてそれくらい、さ」
「……そうだな、このような有様では政宗殿に余計な心配を掛けてしまう」
 相変わらず食欲は無かったけれど。
 政宗との再会まで出来るだけ、食べる努力はしようと決めて幸村は佐助にこくりと頷いた。

「まさむねどの」
「……アンタ、痩せた、な」
「政宗殿も、やつれておられる……」
「アンタが去ってから、飯が不味いからな」
 宿に文が届いた翌々日。
 政宗は一人で姿を見せた。特徴的な刀の鍔で出来た眼帯は、目立つからだろうか、包帯に変わっている。
 政宗に余計な心労を増やしたくないその一心で、食事を口にするようになった幸村だが。やはり量は摂れず、結局彼の前に弱った体を晒してしまっていた。一方の政宗も、痩せ細ってはいないものの、その表情には疲労が滲み出ている。
「……アンタは、あの後すぐ甲斐に帰るもんだと思ってたぜ……。自分の身を守るために出て行ったんなら、あの城での生活が嫌になったんなら、そうするのが当然だ、ってな」
 けど、違ったんだな。槍はまだオレの城にあるし。あの槍を置いてアンタがこの国を出るなんてありえねえ。なあ、なんでアンタがオレの側から去ったのか。聞かせてくれねえか?
「……」
 槍を置いて行ったのは、確かにまだ心は政宗の傍に在ると、その印のつもりだった。もっとも槍は普段政宗の目につかぬ場所に置いてあって、彼がそれに気付くとは思っていなかったのだけど。
 問に答えるべきか迷った。彼の為には、彼のこれから、皆に祝福される未来を考えるならば、自分の本当の心は黙っていた方が良いのでは、と。けれど。すでに彼の傍が嫌になったのではない、自分を守るために城を出たのではないというのはばれていて。政宗の隻眼。深い色を持つそれにじっと見つめられ。
 幸村は自分の半身である彼に、自分が居なくなって食事の味を感じなくなってしまったほどの彼に、嘘をついていたくはない、というそんな気持ちが湧き起こって。
「某は……この身が政宗殿の傍に在る事で、貴殿が傷付くのが嫌、で……それ故に……!」
 本当の事を口にしていた。
「だか、ら……んっ」
 言葉が終わらぬ間に、政宗に抱き寄せられ彼の唇が少し乱暴に幸村の唇に合される。
(あ)
 重なった唇が、酷く甘く、甘露のようだとすら感じ驚いた。それは政宗も同じだったようで。隻眼が一瞬見開かれた後。離れた彼の唇が、またすぐに重ねられる。確かめるように。
 失っていた味覚、それを取り戻していくかのような口付け。
 深くなっていくにつれ、甘さを増して行くそれに二人して夢中になった。
「は、あ」
「……あめえ、な。久しぶりに、味ってものを感じた気がする」
「某、も……」
 唇が離れ、荒く息を吐く幸村の背を政宗がゆっくりと撫でる。
「今なら、アンタの傍ならまともに飯が食べれそうだ」
 幸村も同じ気持ちで。
 政宗が宿屋の主人を呼び、食事の用意を頼み。
 味覚を取り戻した二人は。久々にしっかりした食事を摂った。

「追わないのが今まではアンタの為だと思ってたが。……アンタが自分の為じゃなくオレの為に側から離れたんなら。我慢するのは止めだ。……今すぐには無理だろうが。これからアンタをあの城で辛い目に遭わせない状況を、アンタをオレの正室だと認めさせる境遇を作ってみせる」
 その時まで待っててくれる、か?その時が来たら必ず迎えに来る、だから。

 去り際の政宗の言葉に、そんな日が来るのであろうか、政宗の行動力を信じていないわけではないが、事が事だけ難しいのではないのか、と憂いつつも。
 幸村には勿論彼の言葉通りになればどんなに幸せか、という気持ちがあり。
「お待ちしておりまする」
 と頷いて。
 再び彼の傍で暮らせるようになった暁には、初めて体を重ねた際に彼が見せた戸惑い、その理由を聞いても良いのかも、今日の彼の態度からすると、自分の彼への想い、それが傷付けられるような答えが返って来る確率は低いのかもしれないと思いながら。
 城に戻って行く政宗の後ろ姿が完全に視界に映らなくなるまで、幸村は見送った。


『アンタの忍びの力を貸してほしい。アンタがこの奥州で平穏に暮らす為に』
 宿に届いた政宗の文にはそう記されていて。
 幸村はそれを自分の従者に示した。
 佐助は俺様は真田の旦那の忍びなんですけどねぇ、と嫌な顔をしながらも。
「……旦那の為に、なんて書かれちゃ断れないでしょうが」
「佐助、俺からも頼む。どうか政宗殿に」
「わかってますよ、ちょっくら城まで行ってきますかね」
 と受け入れてくれた。
「俺様が居なくても、ちゃんを食事は摂ってよね!折角少し食べれるようになったんだから」
「ああ、分かっている」
 政宗と再会して以来、幸村は幾分食欲を取り戻している。
 従者の心配げな声に、大丈夫だと伝え。幸村は城へと向かう佐助を見送った。
 もっとも忍びの足は早く、一瞬で彼の姿は見えなくなったのだけれど。

(さすけ?)
 次の日の夜、宿に戻って来た従者は。いつも飄々とした笑みを浮かべている彼らしくなく、厳しい表情を浮かべているように見え。
「何かあったのか?」
 思わずそう尋ねたが。
「あ、いや何でもないよ。あの男人使い荒くてさ〜」
 振り返った佐助は、いつも通りの態度で。更に城内での政宗の様子などを教えてくれる彼の話にいつしか惹き込まれていき。
 感じた疑問を幸村が再度口にする事はなかった。

(……色々と飛び回って居るようだな……)
 人使いが荒い、とぼやいていた通りに、佐助は奥州各地、時には他国にすら足を延ばしているようだった。
 彼らが何をやっているかは幸村には知らされておらず。佐助に聞こうにも、彼はここの所幸村の傍に殆ど居ない。
 しかし今日辺りは一度この宿に帰還するであろう、と踏んで。
 戻って来たら何をやっているか尋ねる位してみても良いだろう、と考え。
 幸村は従者の帰りを待った。

「さすけ?」
 夜、戻って来た佐助が、以前見た厳しい顔を今度は隠そうともしないままに告げて来た言葉。
 それに幸村は驚いた。
「……旦那、あんな事を、あの男への未練を吐き出させた俺様が言えた事じゃないかもしれないけど」
 やっぱり、甲斐に帰ろう。

 佐助が政宗に協力を始めて、既にひと月近く経ったであろうか。その間、従者が帰ろうなどと口にする事が無かった故に、余計に驚きは大きい。
「なぜ……」
「旦那の為だから、って今まであの男に協力して来たけど……あの男が旦那の為にって求めてるもの。それは、星を掴むようなもの、なんだ」
「!」
「あの男は旦那の為に家臣達に隠したまま、その星を掴むような行動に力を注いでる。いまはまだ大丈夫だけど、いずれ国に悪影響を及ぼすかもしれない。あの男の原動力は真田の旦那だ。旦那がこの国であの男を待ってる、だからあの男は星を掴むようなそれを諦めない」
 俺様は、あの男がどうなろうとどうでも良いけど。
 真田の旦那はあの男が大事なんだろう?あの男が苦しむのは嫌だろ?最初に城を出たのもあの男を自分のせいで傷付けたりしないようにと考えての行動、だったんだろうし。
 旦那は同盟が崩れるのを心配してこの国に留まってるのもあるんだろけど、それは俺様が大将にうまく説明する。旦那が憂うような状況にはさせない。だから。
 甲斐に、帰ろう?

「星を掴むような、か」
 佐助の言葉に、すぐに返事は返せなかった。
 自分には、政宗との約束がある。待っている、と彼に告げてしまった。また自分たちは離れていることで、お互いの体調の影響が出てしまうほどの状況だ。
 ふ、と佐助の言葉を思い出し夜更けの庭に立って、夜空に手を伸ばす。煌めく星は、当然ながら手に掴めはしない。
 そんな不可能を、政宗は自分の為に求めている。
 星を掴むような、の詳細を尋ねる事はしなかった。
 佐助は優秀な忍びだ。その彼があんな風に言うのだ。叶えるのは本当に限りなく不可能に近い事だろう。それを聞いてしまったら、自分は政宗の正室として彼の隣で過ごす事などできないのだ、と改めて思い知らされてしまう。
(城から離れていても、傍に居らずとも……この身がこの国に居るだけで政宗殿を苦しめているというならば……いずれこの国に悪い影響を及ぼすかもしれないというのならば……)
 もういちど、星に手を伸ばす。一際大きく、近くに見えるそれに。
 拳でその星を握り締めるようにしてみても、直接触れる事など出来る筈もなく。
 せめて手の中に何か欠片でも残っていないか、と手のひらをそっと開くが。
 そこに何かがあるはずもなかった。

 
『会いに行く。迎えに行く、とはまだ言えねえのが残念だが』
 久々に届いた政宗の文は、短くそう記されていて。
 彼との約束と、自分の従者の言葉で揺れていた幸村だが。政宗の訪問は、やはり嬉しかった。

「幾らか、体力取り戻したか?」
「あの後、前よりは食べ物を口にできるようになった故に」
「そりゃ良かった。オレの方もあの後何とか普通に飯食えてる」
 その言葉の通り政宗の方も、以前のように体の方はやつれた様子はないが。左目の下に隠し切れない隈が滲んでいるのが気になった。
「眠れていないので?」
「……寝床が冷てえからな。アンタが居た時はあんなに暖かかったってのに」
「っ」
 呟きと同時に抱き寄せられる。
「やっぱりアンタはあったけえ、な」
「まさむねどの」
「……アンタを早く城に連れて帰りてえ……」
 声は酷く重く、疲れた響きを持っているように聞こえた。
 連れて帰る、とは彼は言わなかった。それはやはり文にもあったように自分が城で暮らす環境は未だ整っていないのを示しているのだろう。 
「今日は泊まる。小十郎にも伝えてきた」
 だから夜になったら、久々にアンタをオレにくれ、と囁く政宗に紅くなりつつも。
 幸村とて政宗をこの身に感じたい想いはあり。それ故に異はなく。小さく頷いた。

 久しぶりの交わり。
 政宗は何度も情熱的に幸村を求め、幸村もそれに応えた。
 精を、子種を中に注がれた回数は数えきれず。幸村の腹は中に留まっている子種で僅かに膨れているようにすら見える。
 愛された証の筈のそれに、何故か苦いものを感じながら幸村は意識を失った。
「……」
 暫くして、僅かに浮上した意識の中、うっすらと目を開けると。膨らんだ腹に、政宗が視線を向けて手を伸ばしている。その様子を、幸村は未だ霞む意識の中から見守った。
(まさむねどの……)
 彼の手は、優しく腹を撫でる。まるでそこに何か愛しいものが存在しているかのように。
 暫く腹に触れていた手、それがゆっくりと離れると同時に。
「……アンタに、オレの子が産めたなら、な」
 ごく小さな、消え入るような。しかし確かな苦渋を滲ませた政宗の声が落ちた。
 政宗はおそらく、幸村の意識が無いと思ってそれを呟いたのだろうが。
 彼の口から改めて出た子供という言葉。
 それは幸村の心に大きく刺さった。
 政宗は、やはり自分のせいで苦しんでいる。
 いくら彼に愛されたとしても、この身に子種を注ぎ込まれたとしても。自分はどう考えても彼の子を産む事は出来ず。それ故に、彼の城で平穏な生活を送るなど無理だろう。
 政宗の言葉を、信じていたかったけれど。彼の城で再び暮らす日を夢見ていたけれど。
 その信じる気持ちすら、彼を苦しめる事に繋がっている気がする。
 佐助が言っていたように、自分がこの国から去れば政宗は自分を諦めるかもしれない。
 (俺はやはり、この国から去らなければ……だが)
 星を掴むその内容は未だ幸村には分からないが。
 もし政宗が甲斐に戻った自分を諦めず、更に万が一彼が星を掴めたとしたら。

「その時は、某を迎えに来てくだされ」
 なんて我儘なんだろう、欲深く浅ましいのだろうと思いつつ。彼とまた暮らせるかもしれない、と期待していた淡い心は捨てきれず。
 今の政宗には聞こえていないだろうから、と言い訳して。
 そう伝える。
 あの後、腹を撫でていた手を名残惜しげに離した政宗は、幸村の体の後始末をして眠りに就いたようだった。
 離れた後の彼の体調は心配だったが、自分が倒れる訳にはいかないと良く分かっている人だ、きっと大丈夫だろうと言い聞かせる。
 既に庭には自分の行動を悟った従者が待ち構えている筈。
 幸村は今度こそ決心が鈍らない内に、と。音を立てない様に注意しながら重い体を引き摺り部屋を出た。


 政宗がその背を誓いと共に見送っているとは知らずに。



(ああ、もうすぐ甲斐に着く……)
 佐助の腕の中で移り変わる景色を眺めていた幸村の瞳に、馴染みのある町並みが映り。本当に帰って来たのだ、奥州から離れてしまったのだと知らしめる。
「大将には文を出してる。悪いようにはならないよ」
 従者の言葉に「すまぬな」と返す。
 どうやら佐助は上田ではなく、信玄の住む躑躅ヶ崎に向かっているようだった。
「お館様……」
 躑躅ヶ崎の館、その入口の門に。信玄が立っている。佐助の腕の中から下りた幸村は。少し震える足取りで、主の元へ向かった。
「幸村よ」
「!」
 信玄の拳が頭に伸びて来て。
『自分の意志で嫁入りを決めたと言うのに、今更戻って来るとは何事か!』と怒鳴られながら鉄拳を受ける覚悟をして目をきゅっと瞑った幸村だが。
「……よう、頑張った」
 信玄の手は、髪を優しく掻き混ぜるのみ、だった。
「おやかたさまっ……それがしっ」
 主は全て事情を知っているのだろう。
 彼の優しさに、暖かさに久々に触れた幸村は。堪えきれずに嗚咽を零した。

「その身の為を思って出した条件、それが返って苦しめてしまったようじゃな」
 ひとしきり泣いた後に、信玄から告げられた言葉。それに幸村は首を振る。側室を娶るな、というあの事を指しているのだろう。
「お館様のせいではございませぬ。……政宗殿はお館様のお言葉が無くとも、側室を娶る気はないと仰ってくださいました。御言葉通りに、某を愛してくださって……」
 短い間だったが、確かに幸せだったのだ、と伝える。
「そうか。暫しこの館でその心を癒すが良い」
 主は分かっている、というような笑みと共にその傍で暮らす事を許してくれた。

『欲しいものはないか』と数日後信玄に尋ねられた幸村は、「なにも」と返そうとして。自身が槍を政宗の傍に置いたままだったのを思い出し。それを正直に話し。
「お館様のお役に立つための槍、それをまたいただければ」と、小さく告げ。
 今その新たに賜った槍を持ち、館の中庭で軽く揮いながらその感触を確かめている。
 まだ本調子じゃないんだから本格的な鍛錬は禁止!と佐助から言い含められていて、自身も不調を自覚しているから、数回振っただけで休憩の為に縁側に腰を下ろした。そこに佐助が降りて来る。
「旦那、これ上田に届けられたみたいなんだけど。これって大将の遠縁の姫から贈られた着物、だよね?」
「!」
 政宗が上田に現れたあの日、奥州に向かう途中の宿で脱げ、と言われた着物。佐助が持っているのは、確かにそれ、だった。
 脱いだ着物があの後見当たらぬなと思っていたが、政宗はどうやら宿に置いて行ったようだ。偶然、宿に幸村を見知った者がいて、この着物を幸村が身に付けていた事を覚えていたらしく。その者により持ち主を知った宿の主人の心遣いにより、上田まで届けられていたらしい。
「後、もうひとつ」
 旦那があの国から離れれば、独眼竜も諦めると思ったんだけど。……どうもその気配が無くてね。あの男のこれからを想うのならば……。

「……」
 元より文を書くのは得意ではない。机に向かい、何と、書けばいいのだろうと悩みつつ。まずは感謝の辞を述べようと筆を動かすが。
「ふ、くっ」
 同時に彼との想い出が、共に過ごした時間が蘇り、零れ落ちる涙で紙を駄目にしてしまった。
 文を書く決意をする前に、佐助に確認をした。彼の、政宗が自分の為に求めているそれは。本当に叶えるのが不可能なのか、と。返って来たのは、やはり肯定で。
 政宗が尚、自分の為に動いてくれているのは嬉しい。けれど、それは彼の歩みを止める事に繋がっている。
 幸村が今書いている文。それは。
 政宗へ宛てた離縁願い、だった。

「まだ、心が癒えておらぬのは分かって居るが……ここに居るのならば向こうから会いに来る、と聞かなくてのう。しかも届いた文には今朝発つつもりだと……恐らく夕方には着くであろう」
「……会うだけで、良いのなら」
「そうか!」
 信玄の顔にあからさまにホッとした表情が浮かぶ。以前はこちらから訪ねて行く予定をすっぽかしてしまったのだ、遠縁の姫から、主に何か文句が伝わっていてもおかしくはない。
 離縁願いの文は既に出し、その事実は信玄も知っている。文の返事はまだないが、恐らく政宗は受け入れるだろう。星を掴まない限り、彼はこの身を迎える事は出来ないのだから。いつまでも不可能な事に囚われていて良い立場ではないのだから。
 しかしそれでも自分の心は政宗に在り、姫君の期待には沿えないだろうが、会うだけで主の心が軽くなるのならば、と。幸村は了承し。佐助は、「その姫さんとは縁があるんじゃないの。どういう経緯で着物手放したかは知らないけど、また旦那の元に戻って来てるんだし」と言っていた。
(まるで、あの日をやり直しているようだ)
 今回、自分は訪れる側ではなく待つ側だが。状況はあの日、政宗が自身を攫いに来た時と良く似ている。けれど。
 今度はあのような乱入劇がある筈もない。
 そろそろ姫君達の一行が着く頃合いかと門に向かい歩く幸村の脳裏には。あの日の政宗の姿が映し出されていた。
 馬に先導された籠が見える。あの籠の中に姫が居るのだろう。一団が門に入ろうとした時。
「え」
 後ろから勢い良く走ってきた馬が、彼らを追い越して一番に敷地内に侵入するのが幸村の瞳に映った。
 その立派な体躯の馬には覚えがある。馬上の人物は、こちらに気付くと。
 馬を下り駆けて来た。
(まさむねどの、なぜ。……俺は夢でも見ているの、か?)
「離縁なんて冗談じゃねえ!!」
 響いた声は確かに彼の、政宗のもので。
 同時に強く抱き寄せられて。その体温、心音に。彼がこの場所に居るのは夢ではない、と知った。

「アンタを、迎えに来たんだオレは」
 籠から降りてきた姫は、こちら見て驚いた顔をしていたが。幸村が再び身に付けていた着物から、関係を悟ったらしい政宗が「こいつはオレの、奥州筆頭の正室だ。離縁したつもりのようだったが、生憎オレはそれを許す気はないんでな。諦めな」と言い放ち。更に信玄も何やら言い含めてくれて。彼女たち一行は結局屋敷に上がる事無く帰って行った。
 その後に政宗から告げられた言葉。
「アンタの心を一番傷付けてたのは、跡取りの事だろ。だからオレは」
 探した。
 伊達の血を引いていて、それでいてオレとアンタに似た子供を。
 ただ伊達の血を引いているだけで、似てない子供はアンタの心を傷付けるだろう、アンタに責任を感じさせるだろう。だから、オレとアンタの子供と勘違いするほどに似ている子を探した。
(ああ、それは本当に星を掴むような、事、だ)
 佐助が叶う筈がない、と言うもの無理はない。だが。政宗は、迎えに来たのだ、と。それならば。
(……政宗殿は、星を、掴めたのであろうか……)
「奥州中を探して、時には他国も探して。けどなかなか見付からずに、諦めかけた事もあった。だが」
 政宗が、先程姫君達が去って行った門の方に視線を向け。幸村もそれに習うと。
 そこには小十郎が居て。彼の後ろについてこちらに歩いて来る小さな子供ふたり。
 この子供の容姿に、幸村は大きく目を見開いた。
「やっと、見付ける事が出来た」
 幸村の瞳に映る二人の子供。それは、以前夢に出て来たあの子供達と、寸分変わらぬ容姿を持っていて。
 彼が星を掴んだ事を知り。
 いつの間にか傍に立っていた佐助の口からも「存在、したんだ」と呆然とした声が洩れた。

「こいつらは兄弟で、しかも伊達だけじゃなく真田の血も引いてるらしい。両親は既に亡くなってて、オレ達の子供になる事も納得済みだ」
 父親はオレの影武者、だったと聞いてる。オレはその存在自体を知らなかったが、その男は確かに伊達の血を引いている、と小十郎も。
 ……オレの周囲の、跡取りをってうるさかった連中からの風当たりも、アンタが離れてオレが体調を崩した辺りから、弱くなってな。
 小十郎が、オレの心を殺してまで、体を弱らせてまで血を引いた跡取りに拘るのかって家臣連中に言ってくれたおかげもあるんだろう。
 アンタを傷付ける事は、オレを傷付ける事に繋がるってのが、連中にもやっと分かったらしい。
 あの城でアンタを危険に晒すような事はもうないだろう。
 だから、迎えに来た。
 ……オレに似てる方は梵天丸、オレの幼名と同じ、だ。伊達の、オレの跡取りとして既に城で認められつつある。
 あんまりオレ達に似てるから、事情を知らない連中の間には、妖術か呪術でも使ってアンタに産ませたんじゃって噂も立ってるくらいだぜ?そう思われてる方が好都合だから敢えて否定はしなかったが。
 ……アンタに似てる方、名前まだねえんだよ。アンタが付けてやってくれねえか。

 あの時のように夢ではない、現実なのだ。
「ははうえ〜」
 政宗にそう呼ぶように言われていたのだろう。政宗の子が産めたら、と思った事はあっても自身は男で、母という呼び方に抵抗が全く無い訳ではなかったけれど。それよりも。
 夢でしか有り得なかった存在に現実で会えた嬉しさが勝って。
「べんまる」
 足元に抱き付いて来た子共、自身の幼少期に良く似たその子を、自分の幼名で呼んで抱き上げて。こちらを小さく笑みを浮かべながら見つめている政宗に、泣き笑いのような笑みを返す。
「まさむねど……?!」
「政宗様!!」
 直後、幸村の滲んだ視界の中で、政宗の体がぐらりと傾いだ。
 
「母上」
 部屋の入口に、子供達が立っている。彼らの後ろには信玄の姿も在った。
「そろそろ、子供達も寝かせた方が良かろう」
「お館様、有難うございまする」
 今まで子供達の相手をしてくれていた主に礼を告げ、子供達を引き取る。
「ははうえ、ちちうえは?」
 子供たちは良く懐いてくれて、まるですでに何年か共に親子として暮らして来たかのような錯覚を幸村に起こさせた。
 彼らは奥州の城下、政宗と訪れた茶屋で、影武者の子供という事もあり密かに保護されていたらしい。幸村が感じたあの視線は、彼らのものだったのだ。影武者だった彼らの父が政宗によく似ていたように、真田の血を引く母も幸村に似た所があったらしく。父と母を感じさせる容姿の客に、二人とも興味を引かれていたようだ。
 膝の上に収まった弁丸の小さな頭を撫でながら。
「父上は少しお疲れのようだ。ゆっくり休めば良くなられる」
 政宗を起こさないように、と。潜めた声で伝え。無言で政宗の方を見つめる梵天丸の髪も一撫でした。
 倒れた政宗に驚き焦って医者を呼ぼうとした幸村を制止したのは、小十郎で。お疲れなだけだ、何せ奥州から一度も休憩を取られずに馬を駈られていたからな、先に城を発ったはずの俺たちを追い越すほどの勢いで。元から後から追ってくる手はずにはなっていたが、離縁願いの文を受け取り、予定をすべて投げ捨てて馬を駆られて来たのだろう。充分に休ませて差し上げてくれ、と幸村に伝えた彼は既にこの館には居らず。奥州への帰路についている。

 子供達を、政宗が眠っている寝床の横に敷かれたもうひとつの寝床に寝かせ付け。政宗の顔に浮かんだ寝汗を拭っていると。
 彼の瞳が、数度の瞬きの後。ゆっくり開いた。
「……倒れたのか、オレは……」
「お疲れなのでござろう、片倉殿が休息も取らずにこの地へいらっしゃったと……」
「ああ、アンタからの離縁願いの文を受け取ったその足でそのままここまで来た」
「!」
 小十郎から聞いてはいたが、幸村の出した文が政宗に無理をさせたのだと本人の言葉で改めて伝わってきて。申し訳なくなる。
 体を起こした政宗を慌て支えれると。彼は眠る子供達に一度視線を向けた後、真っ直ぐ幸村に向き合った。
「言い掛けて倒れちまった、カッコ悪ィ。……なあ、あいつらを。オレの正室として、オレの側で育ててくれねえか」

「……政宗殿、ひとつお聞きしても」
 すでに、心は決まっている。けれどひとつだけ聞いておきたい事があった。彼の城で再び暮らせるようになったら、尋ねようと思っていたある事。
「AH?」
「……この身がもし、政宗殿の半身ではなくても、求めてくださったであろうか。貴殿は、この身を必要としてくださったであろう、か」
 初めてのあの日、政宗殿は戸惑っているように思えた故。あの戸惑いは、なぜ男であるこの身が、貴殿の半身なのか、という戸惑いに見えた故に。

「……アンタがオレの半身であるってのは、確かにオレに行動を起こさせた大きなきっかけだが」
 しばしの沈黙の後、政宗が言葉を選んでいるかのように区切りながら静かに声を紡ぐ。
「あの時、オレが戸惑ってたと言うんなら、それは」
 オレに半身なんて存在するはずないと思っていた。しかもそれが、密かに求めてた相手、だったとは。
 そんな驚きの気持ちから、だ。
「!!」
 戦場でアンタに初めて会って以来、ずっとその姿を求め続けてきた。その心はいつしか恋情へと変化していて。あの日も、相手がアンタ以外だったなら、手なんて出さなかったぜ、オレは。
 ただ、それを、感情を含んだ欲を見せてしまえば、戦場の一時的な熱ならともかく、感情を伴った熱など恋愛に未熟そうなアンタには重い、と拒まれてしまうかもしれねえ、アンタに逃げられちまうかもしれねえと。あの時は感情を押さえ付けて。戦場の熱を吐き出す為にただアンタに手を出した振り、をしてた。
 半身と分かってから余計にアンタが欲しくなって。でもオレには立場があって、すぐに行動を起こす訳には行かなかった。そんな時にアンタの縁談話が耳に入って。準備は整ってなかったが、人に取られちゃたまらねえから、上田にアンタを攫いに行った。
 ……跡取りの問題、一番大きな問題は解決したと言っていいだろうが、それ以外もアンタを煩わせる出来事は多分ある。それがアンタの心を傷付ける事がないように努力するが、守りきれねえ時もあるだろう。それでも。
 オレはアンタと共に生きて行きたい。
 オレの隣にアンタが居て欲しい。
 だから。

「まさむねどの……」
 政宗が自身と同じように、半身でなくともこの身を求めてくれていた。あの時、彼の感情が見えなかったのは、敢えて隠していたからなのだと。
 そんな彼が、星を掴むような、不可能と思われた事すら叶え、自分を迎えに来てくれた。拒む理由などあるはずもない。拒めるはずもない。
 今度こそ政宗の隣で生きていきたい。

 子供たちの寝顔を瞳に映した後。
「正室としては色々至らぬ身。これからも貴殿にご迷惑をお掛けする事もありましょう。それでも、貴殿が、政宗殿がこの幸村を求めてくださるのなら。御側にこの身を、ずっと……」
 政宗の胸に身を寄せると。
「ああ、もう離さねえ絶対に」
 力強い声と共に、幸村の背に政宗の腕がまわった。

(夜が明けたら、お館様に礼を告げて。迷惑を掛けたことをお詫びしてから。政宗殿と子供達と共に、奥州へと旅立とう。いや、帰ろう。甲斐への、お館様への忠義は捨てる気はない。政宗殿もそれを許してくださっている。だが、この身は政宗殿の正室。故に、奥州は)
 帰る国、だ。
 奥州筆頭の正室としての立場、それにまつわる困難はこれからも多々あるだろう。けれど。
 政宗と、子供たち、奇跡のようなその存在が隣に居ってくれれば乗り切れる。
 そんな気がして。
 想い人の、自らの半身の腕の中、その心地良い温度を感じながら。幸村は瞳を閉じた。

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