BROTHER`S STEP 1(幸村編)
「じゃあ行って来る、幸」
「いってらっしゃいませ、兄上」
会社の飲み会に向かうらしい兄・政宗の背中が視界から消えるまで見送った後。幸村は自身に与えられた部屋で小さく息を吐いた。
自分の部屋には余り物がない。何故ならこの家において幸村の生活空間は主に兄・政宗の部屋だからだ。政宗は家で過ごすにおいて、幸村を片時も離したがらない。家に居る時の大半は幸村を膝に乗せて過ごすし、寝る時ですら一緒のベッドで腕に抱いて寝る。
(勿論それはいやではござらぬ。所か嬉しくあるが……政宗殿と兄弟、になるとは。不思議なものでござるなあ)
幸村には四歳より以前の記憶が全く無い。代わりに自身の前世の記憶・というものがあった。
遠い前世で幸村と政宗は、戦いの場で会えば熱い刃を交わす好敵手というもので。更に戦場以外では、密かに情を交わした相手でもあり。
そんな相手と『兄弟』になってしまった幸村の心中は、中々複雑だった。
前世で確か歳は二つ違いだったが、今世では政宗は幸村の五つ年上で、体格差も幸村が覚えている過去より広がっている。
(……某はもうそういう意味で政宗殿を好きになる事は許されぬのであろうな……)
遠い昔の記憶を持っている幸村の心には、兄としてでなく情人として政宗を慕う気持ちが密かに眠っている。
(……弟としてこれ以上無い位に大事にしてもらっているのに、更に望むのは贅沢でござる)
めったに使われない、自分のベッドに寝転び。瞳を閉じてそう言い聞かせる。けれど自身に対する政宗の態度を思い出すと、その思いはむなしく四散してしまう。
友人達から常々言われているが、兄・政宗の自分への執着は異常らしい。それを裏付けるかのように、兄は幸村が原因で過去何度も付き合っていた女性と別れている。誰と付き合っていようと、政宗の優先順位の最高値に居るのは幸村で。彼女達は一様にそれを責め、政宗から別れを切り出されている。一度嫉妬に駆られた女の一人が、幸村を階段から突き落とすという事件があったが、その時の政宗の怒りは相当なもので。相手は政宗の鬼迫に当てられて失禁してしまったほどだった。
『俺にとって幸以上に大事なものはねえ。今度こんな事があったら命はないと思え』
政宗の腕に横抱きにされてその言葉を聞いた幸村は、驚きながらもやはり嬉しくて。兄にしがみ付く手に力を篭めると。怒りに彩られていた兄がすぐに表情を変え、優しく頭を撫でてくれた。
(駄目だと分かっているのに。やはりあのような態度を取られると、期待してしまうでござる……政宗殿)
けれど、男同士である以上に、兄弟で情を交わすのは許されないだろう。
それにそんな事は政宗きっと望んでいない。
政宗にとって自身は可愛い弟。ずっと傍に居る為には幸村も兄を慕っている弟の振りをするしかない。『政宗殿』と言いたい気持ちを抑えて、『兄上』と呼ぶしかない。
これ以上考えても埒が明かない、兄が帰るまで何も考えずに済むように寝てしまおう、と幸村はベッドに体を沈める。
この時、彼はまだ知らなかった。
兄と自分の血が繋がっていない事を……。
「政宗殿はまだ戻られておらぬのか……」
まどろんでいた幸村が、意識を覚醒した時。兄・政宗の気配はまだ家には無く。
そう言えば夕飯は冷蔵庫に用意してあるから解凍して食べるようにと言い含められていたのを思い出しはしたが。
「一人では味気ないな」
手を付ける気にはならなかった。
政宗がいつ帰るかは分からない。飲み会だからきっと遅くなるだろうし、彼は帰ってから食事を取ることもないだろう。けれど、幸村は兄が帰ってきてから、彼に見守られながら夕飯を食べたかった。
(依存、し過ぎなのは分かっているのだが)
政宗の幸村への執着は常々周囲から指摘されているが、気付かれにくいだけで充分自分だって政宗に依存し、執着している。それが余り周囲に知られていないのは、政宗が幸村の依存を否定する事なく、当たり前のように受け入れ甘やかしているからだ。
(こんな状態ではいつか、政宗殿が伴侶を得られる時どうなってしまうのであろうな……)
その時、心は酷く痛むだろうが。笑顔で受け入れようとする努力はするつもりだ。けれど、上手く笑えなくて政宗に心配をかけてしまうような気がする。そしたらあの自分最優先な兄は、結婚を取止めてしまうかも知れない。それ位、大事にされている自覚はある。
(いや、もしかしたら……政宗殿が自身で結婚を決められた相手ならば、俺より優先したいと思う相手かもしれない……そんな相手が現れたら……くるしいで、ござるな)
架空の想像で胸を痛めると同時に、まだ見ぬ相手に暗い気持ちを向ける。
ついさきほど、考えまいと思ったばかりなのに、兄への許されない想いを再び抱えてしまっている。
こんな風では駄目だと、ぎゅっと拳を握ると。玄関から鍵を開ける音が聞こえ。
「!」
幸村は政宗を出迎えるべく、部屋から飛び出した。
「おかえりなさいませっ」
「……幸、まだ起きてたのか?」
遅くなるから先に寝とけと言っただろう?と呟く政宗だが、その声の調子は怒っている訳ではなく。むしろ文句を言いながらも、幸村が待っていてくれたという事実に嬉しそうだった。
「幸、飯も食ってないのか?」
「……さっきまで寝てたでござるよ」
待っていた事を伝えるのは、気恥ずかしいし、言ってしまったら兄は「だったらもっと早く帰ってくるべきだったな」と告げてくれるのは分かっていたから。幸村は寝ていたのだと夕食をとっていない理由を誤魔化した。
政宗がシャワーを浴びている間に、自身の食事の支度をする。といっても温めるだけだが。
兄はシャワーから出たら、いつものように自分を膝に抱くだろう。そして兄の膝の上で食事をするのだ。
政宗が居ない時、色々と考えて不安定になってしまうけれど。一緒に居る時は、何より兄が自分を優先してくれる事を言葉や態度で伝えてくれるから。
政宗に密やかな恋を抱いてる身としては、それらは嬉しいと同時に辛くもあるのだけれど。
さっきまでのように心が翳る事は無かった。
仲の良い兄弟としてずっと過して行くのだと思っていた。
だが、とあるきっかけでそれは砕かれる。
「伊達、これはお前の兄じゃないのか」
登校してからHR前のざわついた教室で呟かれた声。その言葉に、幸村は少し遅れて反応した。前世の記憶があるせいで自分の苗字は「真田」という印象が強い。だが政宗と兄弟である今自分の名前は、「真田幸村」ではなく、「伊達幸村」だった。
自分の前の席に座っていた石田三成が振り返りこちらに差し出したのは、どうやら経済系の雑誌らしい。
この石田三成とも、前世で少なからず関わりがあったが、相手はやはり政宗と同様にその頃の記憶は持っていないらしい。相変わらずきつい物言いで、彼を敬遠するものは多いが、幸村にとってそれは前世の彼を思い出させて不快なものではなく。三成とは友人といって良い付き合いをしている。
三成が示した記事には確かに兄・政宗の写真が載っていた。最近、急成長を告げたとあるグループ会社の若社長として。
政宗は家に仕事を持ち込まない。だから彼の仕事の詳細を幸村は知らなかった。
記事を覗き込んでいると、三成から更に声が掛かる。
「それに書かれている伊達政宗の『弟』は、お前の事とは思えんが」
「え」
写真を主に見ていた幸村は、言われて記事の内容を読み始めた。
文字を追って行く内に、手が小さく震える。
記事は所謂ゴシップ色の強いものらしく。そこには政宗と彼の母、そして政宗の『弟』の確執が恐らくかなり脚色されてであろうが、書き連ねられていた。
そして、三成の言うようにその『弟』として書かれているのは自分ではない。
記事内の『弟』は『政宗の母』と共に海外で暮らしているらしい。
では、ここにいる『日本で政宗と暮らしている』自分は一体何者なのか。
(……そもそも、両親が健在とは思っていなかったでござる……だってあの時)
まだ自身が5つか6つの時、幸村は政宗に尋ねた事があったのだ。父上と母上は?と。
当時、幸村は政宗と二人の身の回りを世話する初老の女性と、今住んでいるマンションよりかなり田舎の一軒家で暮らしていた。
兄も女性も優しかったし、特に不満があったわけでもない。ただ純粋にこの家に両親の姿が見えない事への疑問、だったのだ。
それに対して兄は。隻眼を伏せ少しの沈黙した後。
「幸は、俺だけじゃだめか?父さんと母さんが居なきゃ寂しいか?」
と言って幸村を抱きしめたのだ。
その態度に幸村は、ああ、父と母は既にこの世には居ないのだ。と幼い心で理解した。この頃、緩やかにだが前世の記憶を取り戻していた幸村は、普通の子より聡かった。故に兄が、自分が寂しいと言い出すのを恐れているのも感じ取り。
兄にこの事で負担を掛けてはならないと。
「幸村には兄上が居れば充分でござる!」
いつもの様に笑顔で政宗に懐いて見せた。
兄が微かに笑んで頷くのを見て、幸村も安心し。
その後、幸村が両親について質問する事はなくなった。
今思い返しても、あの時の政宗は、嘘を吐いている様にはとても見えなった。
しかし、いくらゴシップ色の強い記事とはいえ、存在していないものをこうも大きく取り立てたりしないだろう。しかも政宗の両親とされる人物の写真もはっきりと載っている。『弟』とされている人物の写真はなかったが。
(どういうことなのでござろう…)
今まで伊達政宗の弟として暮らしてきた自分、『伊達幸村』は何者なのか……。記事には『政宗の弟』の存在はあっても、『自分』を示す様な存在はどこにもない。
『幸との時間を仕事なんて無粋なモンに邪魔されたくないからな』、と政宗は言っていて、今までそれに疑問を持った事など無かったが。もしかしたら仕事を持ち込まない=仕事について知られたくないというのが本当の理由ではないのか。
「おい、顔色が悪いぞ。そんな状態で授業を受けられても迷惑だ。保健室に行って来い。保健委員!!」
三成の声に我に返り、ここが教室だったと言うことに気付く。既に保健委員である女子が幸村の傍に来ていた。
「ほんとに凄い顔色。少し休んだ方が。歩ける?歩けないなら先生呼んで来るけど」
「それは大丈夫でござる……石田殿、この雑誌お借りしても宜しいか?」
「構わん」
自身でも酷い顔色をしている自覚は有る。それにこれから授業を受けてもきっと何も頭に入らないだろう。だから幸村は素直に保健室へ向かう為、緩慢な動作で立ち上がった。
雑誌を手に持ったまま保健室、というのもおかしい気がしたが。幸村はその本を教室においていく気にはなれなかった。
漫画などと違い割とお堅い雑誌だったのが幸いしてか、幸村の持つ雑誌に保健医はチラと視線を送ったもののそれを咎めることは無く。
ベッドで休む許可を取った後、幸村はその雑誌を枕元に置いてから瞳を閉じた。
とはいえ、とてもじゃないが眠れる気分ではない。
自分は、『伊達幸村』はいったい何者なのか。
『伊達家』の家族構成を詳細に書かれた雑誌に、存在しない自分。しかし幸村は幼い頃から『伊達政宗の弟』として育った。
政宗の両親とされていた人物の写真。その二人は政宗の両親と言われればしっくりくる気はしたが、自分の両親と言われると酷く違和感を覚える。
(……愛人の子。とかなのであろうか。いや、それならばあの系のゴシップ記事が話題にしないはずは……)
政宗に密かな思いを抱くものとして、兄弟でなければ、と思ったことは当然有る。けれどいざ本当にそうなのかもしれないと突きつけられると、どうしていいか分からない。いやまだ本当に兄弟ではないと決まった訳でないが。
(確かめなければ……でも)
もし本当の兄弟でないとしても、政宗は今までそれを一切匂わせなかった。それ故彼に真実を尋ねる事は、『仲の良い兄弟』であるはずの自分達に軋轢を生むかもしれない。
(それは、嫌でござる……政宗殿)
今まで幸村が困難にぶつかった時、助けてくれるのは、アドバイスをくれるのは兄・政宗だった。けれど今回兄は頼れない。
幸村は兄の庇護の下で生きている高校生だ。兄・政宗の存在は絶対で、今まで彼に隠れて何かをするような事はなかった。けれど。
目を開けて、枕元に置いた雑誌に視線を送る。
(知りたい。俺が、『伊達幸村』が何者なのかを。……俺は、政宗殿にとってほんとはどんな存在なのかを。……俺は何の力も無い学生で、何も掴めないかも知れない…だが)
保健室のベッドの上、幸村は兄に内緒で自分の事を調べる決意を固め、小さく拳を握った。
「?」
眠れそうに無いと思っていたのに、普段に無く考え込んで疲れた為か、いつの間にか眠っていたらしい。軽く目を擦って保健室のベッドに体を起こした幸村は、すぐ違和感を覚えた。その原因は。
(石田殿にお借りした雑誌が……無い?)
ここに来た時、確かに枕元に置いていた筈の経済雑誌の姿が消えている。寝相が悪くてベッドの下に落としたかと、探ってみるが見当たらない。誰かが持って行ってしまったのかとも考えたが。
(漫画ならともかく、あの雑誌に興味を持つ高校生がそうそう居るでござるか?……あの記事をまず最初の手がかりにして調べようと思っていたのに)
ベッドから下り、呆然と立っていると保健医の女性が「伊達君?」と声をかけてから仕切られたカーテンを開けた。
「もう授業終わってるわよ。……まだ顔色良くないわね。お兄さんに迎えに来てもらう?」
「そんなに寝てたでござるか?!」
「ええ、でも寝た割にはまだ顔色良くないわね。やっぱりお兄さんに」
「いえ、自分で帰るくらいは出来るでござる。……あの先生、某ベッドに雑誌を置いてたのでござるが、それが無くなってて。借り物なのでござるが……某が寝てる間に誰か持っていったりは」
「……さあ私もずっとここに居たわけじゃないから、分からないわ」
一瞬、間があったのが気になったが。分からないといっている以上、教師を強く追求する事も出来ず。それに彼女があれを隠す理由など無いだろう。
幸村は保健医に頭を下げてから、教室へと戻る為に歩き出した。
石田殿に謝らねば、と思いながら。
「伊達、大丈夫なのか」
「はい、いささか寝すぎました。……それより石田殿に謝らねばならぬ事が」
既に放課後となった教室に人はまばらだったが、三成はまだそこに居て。幸村は雑誌をなくした事情を話し、彼に謝罪の言葉を告げた。
「別にもう読み終わっていたから無くしたこと自体は構わんが……おかしな話だな」
他人が寝ている場所にわざわざ入っていってまで高校生が読みたい雑誌ではないだろう、という三成の言葉にやはり同じように思っていた幸村も頷いた。
家の方向が間逆の三成と駅で別れ、学生で込み合う電車に乗り込む。多少の距離なら歩きで済ませる幸村だが、残念ながらマンションから学校まではかなりの距離があり。兄が仕事の無い時は、学校まで車で送り迎えしてくれるが、それ以外は電車で学校に通っている。
それまで電車通学の経験がなかった幸村。高校に通い始めの頃はおっかなびっくり、よく人波に飲まれそうにもなっていたが、今は幾分慣れた。
乗車口から比較的近い柱に捕まり小さく息を吐き目を閉じた幸村だが。
……数分後、自宅からの最寄り駅とは程遠い駅で、転がり出るように電車を降りた。
(気持ち悪い……)
学校から近い駅ではあるものの、今までこの駅周辺に用があったことは無く初めて下りる場所。その駅横に小さな公園があるのを見つけて、そこで休もうと足を向ける。
(男の身で、あんな事態に遭おうとは……)
ベンチに腰を下ろした幸村の体はかすかに震えている。
かつて武将として戦っていた身で、情けないとは思うが、嫌悪と見ず知らずの者に性的に触れられた恐怖は抑えられなかった。
(保健の先生の言う通り、政宗殿に迎えに来て貰えば良かった……しかし政宗殿は、今もお仕事中であろうな)
電車の中、幸村は所謂痴漢と言うものに遭遇した。最初は勘違いかと思ったが、制服のズボンの中にまで手を入れられ、疑う余地は無くなった。けれど男である自分が痴漢に遭っているなど、主張したくないし、信じてもらえない可能性も有る。どう逃れるか考えた結果、幸村はドアが開いた瞬間自分の背後の男を突き飛ばし、本来降りるはずのない駅に降りたのだった。
仕事中であろうと、幸村から政宗に助けを求めれば、すぐに迎えに来てくれるだろう。けれど。政宗の仕事の邪魔はしたくない。常からそう思っていたが、本当の兄弟でないかもしれないと知ってしまった今日は尚更その思いが強い。だが、同時に、政宗に抱きしめて欲しいのも確かだった。
高校入学の時に贈られた携帯を取り出し、ペアキーを押しすぐに現れた番号を眺める。
暫く画面を見つめていたが……体の震えはいまだ止まらない。
携帯を持つ手も小さく揺れている。
この震えが偶然キーを押させたのだ、と言い訳して……幸村は通話ボタンに手を掛けた。
「幸?どうした?」
コール音が2回もしない内に電話は繋がり。兄の声に交じって聞こえる雑音が彼がまだ会社に居る事を示している。いつもの幸村なら、その時点で遠慮して携帯を切ってしまっていたが、今日はやはりそんな気分にはなれなかった。
「……あにうえ」
小さくそれだけやっと呟くと。
政宗はその一言だけで幸村の異常を察知したようで。
「ゆき!今何処に居るんだ?迎えに行く」
すでに兄は動き出している気配がして、幸村は自分の居場所を彼に告げた。
「幸!」
程なくして公園の入り口に兄の姿が見え、幸村は安心感から小さく息を吐いた。
「ゆき?」
ベンチに座る自分の目の前に立った兄の胸に、甘えるように自分の頭を預ける。
政宗は直ぐ抱きしめてくれた。
「何があったんだ?」
無言のままの幸村の背を政宗の手が優しく撫でる。
痴漢に遭ったなど本当は知られたくはないが、言わないと会社から即に駆けつけてくれた彼にずっと心配をかける事になると、それは避けたいと思い。
「兄上、あの情けないと笑わないでくだされ……」
そう前置きして消え入りそうな声で痴漢に遭った旨を伝えた。
「……帰るぞ」
「あにうえ?」
政宗の声が低くなった気がして、幸村の体がびくっと震える。それに気付いた政宗は幸村の背を安心させるようにポンポンと撫で。
「幸に怒ってるじゃねえ。俺の幸に触ったその痴漢が許せないだけだ」
安心させるように小さく笑んだ。
「歩けるか?」
問いに頷き立ち上がろうとしたものの、幸村の膝はまだ震えが残っていて足が縺れてしまい。
「あっ」
「っと」
バランスを崩した所をそのまま政宗に抱き上げられる。
「荷物はその鞄だけだな?」
荷物と共に幸村を抱えたまま、彼は歩き始めてしまった。普段、家の中以外ではさすがに恥ずかしさを感じる行為だが、今日ばかりは外とはいえ、この状態にあえて甘んじていたいと。幸村はおとなしく兄の腕に収まった。
「シャワー浴びて来い、幸。着替えは用意しとく」
マンションに帰り着くなり、兄にそう言われ。
痴漢の感触を早く洗い流したい、と思っていた幸村は素直にそれに従った。
「っ」
触られた場所をいつもより熱めに設定したシャワーで洗い流していく。
しかしいくら流しても触られた感触が消えない気がした。
「幸」
「あ、兄上?」
ドアが開き、兄・政宗が中に入ってくる。普段から一緒に風呂に入る事はある兄弟だが。
「服が、濡れるでござるよ」
今日の彼はシャツとズボンをその身に纏ったままだ。シャワーの飛沫が既に彼の衣服に既に幾分か飛んでしまっている。けれど、政宗はそれに頓着せず幸村に近付き。
「幸、どこを触られた」
そう言って裸の弟を背後から抱き締めた。
「あ、あにうえっ」
体格差のある政宗に、幸村の体はすっぽりと包まれてしまう。
先程まで痴漢の感触に吐き気がしそうになっていた幸村だが。今は背中に感じる兄の体温に、それどころではなくなった。
「ゆき、教えろ。どこを触られた」
大好きな低い声。どこか熱を持ったそれに耳元に囁かれ、抵抗するすべなど持たない幸村は。
兄に痴漢に触られた場所を告げていった。
「っ、あにうえ…っ!」
シャワーの飛沫を受ける中。政宗の手が、痴漢に触られた幸村の体を這う。痴漢相手には嫌悪しか感じなかった行為だが、今触れているのは好きな人の手で。幸村は快感を示しそうになる自分の体を、内心必死で戒めた。だが。
「幸、忘れちまえ。今日お前に触れたのは俺だけだ。俺以外誰もお前に触れていない」
優しい声で告げられながら、中心に触れられ。
「あ、んぁ」
流石に声を上げてしまう。
「幸」
「はぁっ…ぅんんっ!」
緩やかに立ち上がったその部分を、扱かれ。
我慢できずに熱を吐き出した幸村は、くたりと兄の胸に背を預け。そのまま眠るように意識を失った。
「ん」
目覚めると、そこは普段余り使われない自室のベッドで。
(まだ夜中でござるか…)
ベッドサイドの時計は深夜2時過ぎを示している。
幸村の体を苛んでいた痴漢の感触はもう全く残っていない。
代わりに兄・政宗の手の熱さが刻み込まれてしまった。
スキンシップ過剰な兄だが(もっとも幸村本人は友人から指摘されるまで過剰だと分かっていなかった)、今まであんな風に性的に触れて来た事はなかった。
(痴漢を忘れさせようとしてくれた故の行動とは分かっているが……あんな風に触れられては…)
昔の記憶が、彼と重なった熱が。
思い起こされてしまう。
(だ、ダメでござるっ)
記憶と共に体が火照りそうになるが。
慌てて首を振って燻り始めた熱を追い払った。
(そういえば政宗殿は?)
家に居る時は必ず傍に居る兄の姿が、今は視界に入る位置にない。自分が寝ているのが普段使っている兄のベッドではなく、自室のベッドなのも気になった。
(政宗どの?)
首を傾げながら兄の部屋へ向かう。
(…まだ、起きて?)
閉じられた兄の部屋のドアから、微かに明かりが漏れている。気配を消して中を窺うと…。
パソコンのキーボードを打つ音と更に小声ではあるが、誰かと携帯で話しているような声が聞き取れた。
「―幸があんな様子で電話してきて放っておける筈ないだろ。必要な物は朝までに揃えるっ……俺の体調?移動中に眠ればなんとでもなる。そんな事より例の件は手配抜かってないだろうな」
そこから先は更に小声になり、幸村には聞き取れ無くなったが……。
(俺が呼んだから、政宗殿は仕事で無理をしておられる……。血の繋がった兄弟なら兎も角、そうでなかったら、余りにも俺は政宗殿に甘え過ぎでござる……)
幸村は兄の部屋から漏れる灯りを眺めながら、真実を知らなければと強く思った。
(確か大体この辺りだと)
三成から借りた後、保健室で無くなってしまった雑誌。
一度軽く目を通しただけで、はっきりとは内容を覚えていない。手掛かりとしてもう一度中身を確認したいし、三成に買って返そうと考え、放課後。幸村は本屋へ足を向けた。
(見当たらぬ…この辺りで一番大きい本屋は此処だと思ったのだが…)
幸村の通う高校の近くにある書店。規模的にかなり大きい店舗のはずだが、目的の雑誌は見付からない。
周囲を見回すと検索用のパソコンが目に入り。
(確かこのようなタイトルだったはず…)
完全に一致しなくても検索機なら拾ってくれるだろうと、うろ覚えの記憶を頼りに文字を打ち込む。
(?!)
そして表示された結果に、幸村は驚きで言葉を失った。
[出版社側からの回収命令により返本]
(…つまりもうあの本は手に入らぬという事か?
これからどうやって調べれば良いのだろう…)
唯一の手掛かりを失い、沈んだ気持ちで本屋から出る。
(保健室での事といい、何か作為を感じるのは気のせいであろうか……)
自分の知らない所で何かが起こっているような、そんな感覚。
(政宗殿も今日は遅くなると言っていたし。遠回りして帰ろう…)
直ぐに家に帰る気にはなれず。力ない足取りで歩き始める。
「危ないよ!」
横断歩道を渡ろうとした幸村の後ろから声が飛び、同時に後ろから伸びてきた手に腰を抱かれるようにして引き留められた。
「!」
ゴオという音と共に、すぐ目の前をトラックが通過していく。
(……信号、赤だったのか……。後ろの方にお礼を言わねば……。それにしてもさっきの声、聞き覚えがあるような)
危ないと言って引き留めてくれた声。その声を遥か昔から知っている気がする。
ぎこちなく振り向くと。
「っ!」
(さすけ!…)
幸村を助けてくれた声の持ち主は、かつて主従であり兄弟のような関係であった忍・佐助で。
思わず呼び掛けそうになった名前を、慌てて飲み込む。
(前世の記憶など持っている方が珍しいのだ。訝しまれるかも知れぬ)
だが。
佐助の切れ長の瞳が大きく見開かれ、そこに自身の姿が映し出されている。
そして。
「……さなだの…だんな?」
佐助の口から零れた言葉は。
酷く懐かしい響きを持った、幸村に対しての呼び名だった。
「…あ、ごめん!変な事言って。それじゃっ」
失言したとばかりに去ろうとした佐助のシャツを引っ張って引き留める。
「え?」
「……佐助、記憶…が?」
緊張に震える声でそう呟くと。
「!!旦那、記憶あるの?!」
振り向いた彼に肩をがっしりと掴まれた。
「狭い所でごめんね」
「いや」
家がすぐ近くだから来ないかという佐助に頷いて、彼の住処にお邪魔する事となった。一人暮らしらしいアパートは古めかしいものだが、部屋はきちんと整理されていて清潔感がある。
「しかしまさか前世の記憶を持った旦那に出会えるとはねえ」
「俺も驚いたぞ」
お互い、前世で関わりがあった人間が周囲に居るにはいたが、彼らは記憶を持っていなかった。
だからこそ記憶を持った相手、しかも深くかかわっていた相手との会話は大いに盛り上がった。
「旦那、その制服ってお坊ちゃん学校のだよねえ。なんかイメージ違うな。独眼竜とかはそこ行ってそうだけど」
「!」
「旦那?」
幸村の着ている制服に対して佐助が漏らした感想。それをきっかけに、幸村は自分が今どんな境遇にあるかを佐助に話し始めた。
昔から幸村を助けてきてくれた彼なら、今のこの状況にたいして何か助言をくれるかもしれないと思って……。
「独眼竜と兄弟?!」
まず最初に告げた自身と政宗の関係は、佐助にかなりと衝撃を与えたようだった。
「ああ、幼い頃から一緒に暮らしていたから、兄弟である事を疑問に感じたりはなかったのだが」
「……その言い方は今は疑問感じてるんだ?さっきぼーっとしてたのもそれが原因?」
相変わらず佐助は聡い。
「ああ、石田殿…今はクラスメイトなのだが。石田殿が持っていた雑誌で政宗殿と己の関係に疑問を持ち調べようと思ったのだが……」
保健室でその雑誌が無くなってしまった事、買い直そうと思ったら回収命令が出ていて、手に入らなくなってしまった事などを、今の政宗との生活の様子を交えながら佐助に告げる。話の内容に聞き入っていた佐助だが。
「旦那は真実を知りたいんだ?」
「ああ。だが政宗殿に調べている事を知られて、今の関係が悪化してしまうのは怖いのだ…我儘だとは分かっているが……それ故どうやって調べればいいのか……」
「……俺様少しだけど力になれるかもね」
「本当か?!」
「ん、まだ新人だけど一応雑誌のライターやってんのよ俺様。経済誌の方にも伝手あるから探ってみるし」
そう言って佐助は片目を閉じて悪戯っぽい笑みを幸村に投げかけた。
「旦那、これあげる」
「?」
帰り際、佐助からキーホルダーを手渡される。
「?」
「これうちの合鍵。俺様留守の時多いかもだけど、いつでも来ていいからね」
「ああ、すまぬ……有難う、佐助」
もう暗いから送るという佐助を、「男なんだから平気だ」という言葉で押し切って、一人で家路を歩く。幸村としてももう少し佐助と一緒に居たかったのだが……。断ったのは、どうやらマナーモードにしてジーンズのポケットに入れていたらしい佐助の携帯が着信を知らせて光っていたのに気付いたから。しかし佐助が携帯を手に取る様子はなく。
昔から幸村を一番に考えていた節のある彼。前世以来の再会の今日は余計に幸村優先で、自分がいる限り電話に出ないだろう。だから見送りは断った。
(仕事の電話かもしれぬしこれ以上邪魔しない方が良いだろう……しかし本当に話し込んでいたのだな。もうこんなに夜が深いとは……)
普段、学校が終わるとすぐ帰宅する事の多い幸村。政宗から十二歳の誕生日に貰った腕時計で時間を確認すると、既に午後十時前で。
今までこんな時間まで家に帰らなかった事はない。政宗が帰宅していれば、恐らく心配げな声で携帯に連絡が入っただろうが、今日は政宗も遅くなると言っていた。政宗の「遅くなる」は大体深夜十二時を過ぎる。
(今帰っても、政宗殿は居らぬのだろうな)
少し寂しい思いを抱きながら、歩き続けていると。
「?」
大通りに差し掛かった所で、軽いクラクションの音。振り返ると見覚えのある車体が歩道へと寄せている。
(あ、政宗殿の車)
「幸!」
三分の二ほど開けられた窓から、政宗が幸村を呼ぶ。乗れという事らしい。
(今日は早かったのでござるな)
そんな事を思いながら助手席のドアを開けて乗り込むと。
「幸、なんでこんな時間に外に居た?……体も冷えてる」
言葉と共に政宗の手に頬を撫でられた。
「友人の所で遊んでいたでござる」
嘘ではないが、なぜか少しの後ろめたさを感じながらそう告げる。政宗は「そうか」と言っただけで、それ以上の追及は無く、ただ幸村の頬を包む様に撫で続けた。
基本体温が高い幸村は、制服の上に上着を羽織る習慣がない。秋と冬の間で気温が低くなった今でもそれは例外でなく。今日も上着は持っていなかった。
政宗の、いつもは幸村よりは冷たいはずの手が、温かく感じられ、自分の体が冷え切って居た事を初めて感じる。
「兄上の手が暖かいでござる」
うっとりした様な声で呟くと。
「えっ」
まだシートベルトをしていなかった幸村の体は。運転席の政宗の膝の上に、向かい合わせになるように抱え上げられた。そして背を優しく撫でられる。
「あにうえ?」
「幸が暖まるまでこのままだ。この位置なら他の車の邪魔にならないだろうしな」
その言葉に促され、甘えるように政宗の胸元に擦り寄る。政宗はそんな幸村の髪を優しく梳きながら抱き締めてくれたが……。
(……女物の香水の匂い……新しい彼女が出来たのであろうな……)
ここ最近、兄に女性の影はなかった。だが。
兄から微かに香るそれ。更によく見れば兄・政宗の髪は僅かに濡れていてどこかでシャワーを浴びたようで。それが示す事実に気付いてしまった幸村だが。
それを口に出す事はなく。ただ兄の体にすがる手に小さく力を込めた。
(……兄弟でなかったからとて、想いを通わせる事が出来るとは限らない。けれど、この持ち続けるには重くなってしまった気持ちに区切りは付けられよう……)
そんな想いを抱きながら……。
『旦那、今日の夜うち来れる?俺様もしかしたら居ないかも知れないけど、合い鍵使って入ってくれて良いから』
放課後、携帯にそんな内容のメールが入っていて。
幸村は少し悩んだ後。
一度家に帰った後連絡すると返信した。
今日は政宗の帰宅が早い筈。
佐助と出会った日から一瞬間が経つ。あれ以来、兄の帰りが遅い日が続き、会話も余り交わしていない。
本当の兄弟ではないかもしれないと考えた後、甘えすぎとは思ったが、まだ本当の兄弟ではないかはハッキリと分からず。今まで当たり前のように政宗へと甘えてきた習慣はそう簡単に抜けず。一週間も政宗に甘える事が出来ていない。 その事実が寂しく。
佐助には申し訳ないが、政宗との時間を優先したかった。
(え、政宗殿もう帰宅して?)
マンションの駐車場にすでに兄が出勤に使っている筈の車があり驚く。
(会社の車が迎えに来る事もあるが今朝はあの車で出かけたのを見ているし……)
早すぎる帰宅を不思議に思いながらも、マンションの自分たちの暮らす部屋へと急ぐ。
「ただいまでござる」
インターフォンに呼び掛けると、やはり既に家に居たらしい政宗の声がすぐに帰ってきた。
『おかえり。幸、着替えて手洗ってからリビングな』
政宗の言葉の通りに着替えて手を洗ってからリビングへ向かう。近付くにつれて、微かに食欲を刺激する甘い匂いが漂って来る。
「兄上?」
「幸、取引先から栗大量に貰ったから久々に菓子作ってみた。食べるだろ?」
「わ、凄いでござる」
テーブルの上にはモンブラン、ロールケーキ、蒸しパンなどの栗を使ったお菓子が並んでいる。政宗手作りのそれは、プロ顔負けの出来栄えだ。
「ここ最近、全く作ってやれなかったからな」
椅子に座った政宗が自分の膝を軽く叩いて幸村を見遣る。いつもの様に、幸村は政宗の膝の上に収まった。
「どうだ?」
「うまいでござる!」
「そうか」
「あの兄上?」
「何だ?」
「今日はもうお仕事無いでござるか?」
それだけで幸村が言いたい事を政宗は悟ったようで。
「ああ、今日はずっと幸と居る。一週間も構ってやれなくて悪かったな」
声と共に、優しく後ろ頭にキスを落とされる。幸村はフォークをテーブルに置いて兄を振り返り。きゅっと抱き着いた。
(ずっと一緒に居ると言っていたのに……)
数時間後、幸村は兄の部屋のベッドで一人。横になっていた。
昼間、兄の膝の上で彼の作ったケーキ等を堪能していた幸村だが。さすがにそろそろ兄の膝が痺れてくるのではないかと、降りようと伝えようとした時。テーブルの上に置かれていた兄の携帯が鳴った。
折り畳み式のそれを開き、着信相手を確認したらしい政宗の顔が一瞬不機嫌そうに歪んだのが、幸村には見て取れた。
「なんだ。今日は掛けてくるなと言っていた筈だ……何?」
相手が何を言っているか、幸村には聞き取れない。ただ、おそらくすぐ切ってしまおうと考えていただろう兄の意識が、途中から電話の内容に向いたのが感じ取れて。
(……今日も結局一緒に過ごせそうにないな)
そう思ったのだった。
そして電話が終わった後、やはり政宗は幸村に何度も謝った後出掛けてしまい、今に至る。
幸村がどうしても行かないでほしいと言えば、政宗は用事を蹴ったかも知れない。けれどさすがにそこまで我儘にはなれず。
(佐助には、行けないとメールを送ったが……)
合鍵は持っているし、佐助はいつでも来て良いと言ってくれていた。
政宗はいつ戻って来るか分からない。すぐに帰宅するつもりなら、幸村にその旨を伝えて出かけるはずだがそれも無く。
少し悩んだ後。
幸村は、佐助からもらった合鍵を上着のポケットに入れて家を出た。
「佐助」
アパートのドアをノックをしてみるが、部屋に電気は点いておらず返事はない。外で待っているには寒い季節。
(お邪魔するでござるよ)
心の中でそう呟いてから、幸村は合鍵を鍵穴に差し込んだ。
「ん、俺宛?」
作業机と思われるものの上に『真田の旦那へ』と書かれた封筒。自分宛てなら見ても問題ないだろうと、その封筒を手に取り中身を取り出した。
(これは……)
どうやらそれは幸村が探していた経済誌の記事の原本らしく。雑誌には載っていなかった事柄も薄く鉛筆で書かれていた。
(これは俺の事?)
記事の端に消えそうな薄さで『兄・政宗の方は素性不明の5歳年下の少年と同居中。彼については徹底的に情報が隠されているらしく、幾ら調べても何も分からなかった為今回の記事には載せられそうにない』とある。
5歳年下で政宗と同居している少年。それは間違いなく自分を示している。
「……」
「あれ?旦那来てたんだ」
「さすけ……」
いつの間にか帰って来ていたらしい佐助。呆然と記事に見入っていた幸村は、それに気付かなかった。
「旦那、それ読んだんだ」
「ああ……俺はやはり政宗殿の本当の弟ではないのだな」
「そうみたいだねえ」
「……それなのに何故俺は幼い頃から政宗殿と共に暮らしていたのだ」
「その辺は俺様には分からないねえ……多分独眼竜の指示だと思うけど、その記事のメモにあるみたいに、旦那についてはほんと隠されてるみたいだし。その本の回収命令もさ、伊達家の方の指示みたい。……真実知りたいなら、直接当たってみるしかないんじゃない?」
「しかし……」
「旦那が独眼竜との今の関係壊したくないって気持ちは分かるよ。この前少しだけ見かけたけど、ほんとに仲の良い兄弟みたいだし。だからさ。独眼竜本人に聞くんじゃなくて、独眼竜と旦那の事昔から知ってる人って居るんじゃない?ほら例えば右目の旦那とかさ。現世でも独眼竜の傍に居るんでしょ?」
「ああ、今でも片倉殿は政宗殿に仕えている」
幸村は政宗以外の伊達家の人物とはほとんど関わりがない。だから政宗以外に聞く事など思い付かなかったのだが。
(そうか、片倉殿なら俺が政宗殿の弟として暮らすようになった経緯を知っていてもおかしくない)
政宗の部下・片倉小十郎。滅多に会う事はないが、実は今世において幸村は、彼を少し苦手としていた。
自分に対する彼の視線が、少しだが険があると感じてしまっていたからなのだが。
(もしかしたら片倉殿のあの視線も、俺の素性に関係しているのであろうか)
そう考えると真実を知るのが怖い気もする。だが知らなければ自分の気持ちはずっと停滞して燻ったままなのも確かで。
軽く拳を握った両の手に力を込める。そして。
(片倉殿に会おう。会って尋ねよう。俺は一体何者で。何故俺は政宗殿と共に暮らしているのかを)
そう決意した。
(しかし政宗殿に知られずに片倉殿に会うのは難しいのでは……)
等と思っていた幸村だが。意外と早く機会は訪れた。小十郎の方が政宗と幸村が暮らすマンションに訪れたのだ。政宗の留守時に。
「片倉殿……如何された?」
彼が自分からこの場所を訪れる事は滅多にない。訪れるにしても、今までは必ず政宗が在宅している時だった。
兄に知られずに小十郎に会おうと思っていた幸村だが、いざ彼と二人きりで対峙すると緊張してしまう。
「お前、最近自分の事を調べているようだな」
小十郎の言葉に、幸村は大きく目を見開いた。
「政宗様は必至で隠しているようだが、俺としてはいずれ知ってもらいたいと思っていた」
「……やはり片倉殿は本当の事を知っているのでござるな……」
「ああ」
「……お話、聞かせて下され」
立ち話には長くなりそうな予感がして、幸村は小十郎をリビングに招き入れ、好みが分からぬなと思いつつも緑茶を出す。
小十郎はその茶を一口含んだ後。
自分は伊達家側の政宗側の人間だ、と前置きしてから、話し始めた。
「まず最初に言っておく。
気付き始めているとは思うが……お前と政宗様は本当の兄弟じゃねえ。親戚でもねえ。赤の他人だ」
「では何故某は政宗殿と一緒に暮らす事に?」
質問への返事は直ぐには返ってこず。
幸村が首を傾げる程長い沈黙の後。
小十郎は漸く口を開いた。
「事故、だった」
「?」
「うちの、伊達家の運転手が事故でお前達母子を轢いた」
「!!」
「変わりかけの点滅を示していたとはいえ、歩行者信号は青だった。だから悪いのはうちの運転手だ。……お前の母親はその時の事故で亡くなった。その時のうちの車には運転手の他に、政宗様と俺が乗っていた。……母親以外身内がなかったらしいお前は施設にその後施設に預けられたが……それを聞きつけた政宗様が会長、政宗様の実父だが、に相談してお前を引き取った。周囲には自分の弟として扱うようにと命令して…」
「っ」
「事故を起こしたのは運転手で…更に言えば急がせていた俺の責だ。政宗様には何の責もねえ。……それなのに政宗様は幼い頃から十年以上お前に償ってきた。もう十分だろう?政宗様はお前が傍に居る限り、自身の幸せを考えねえ。お前の為に婚約を解消もした」
「!」
「俺に、お前を責める資格等ないと分かっている。だが一つだけ言わせてくれ。あの事故が無ければ政宗様の右目は失われなかったかもしれないと思うと……」
「?!」
小十郎が絞り出すような声で言葉を紡ぐ。その内容は幸村に大きな衝撃を与えた。
現世でも確かに政宗は隻眼で。
「どういう事でござるか……」
「あの時政宗様は右目を怪我して病院に向かう途中だった。俺は運転手にとにかく早く病院へと指示していて……。その道のりでの事故だった…。そして事故を無視する事は、政宗様が許さなかった。数時間のロスだ、もし事故が無かったとしても治療は間に合わなかったかもしれない……それでも、どうしても今でも考えてしまうんだ……もしあのロスがなかったら政宗様の右目は失われずに済んでいたかもしれないと……」
幸村から見た彼の肩は小さく震えているように思えた。
「……すまん、今の事は忘れてくれ。政宗様にも、右目の事でお前を責める事は許さないと言われていたのに……だが、頼む。政宗様はお前の素性を隠す為にかなりの無理をしている。最近お前を会長の愛人の子じゃないかと下種な勘繰りをする奴も出てきて……もうお前の存在を隠すのも限界に近い。だから……」
「片倉殿?!」
突然深く頭を下げられ、幸村の口から動揺した声が漏れる。
「頼む。政宗様の傍から……去ってくれ、真田。政宗様にこれ以上負担を掛けない為に……」
伊達家の人間から初めて『真田』という言葉を聞き、幸村は呆然とした意識の中で、自分は今世でも『真田幸村』なのだなとぼんやりと考えた。
「ぅっ」
小十郎が去った後。幸村の瞳からとめどなく涙が零れ落ちる。
伊達家の車が原因で母を失った事へのショックは、余りない。何故なら幸村には母の記憶がないから。自身の幼い頃の記憶と言えば政宗と、世話役の女性に可愛がられていた優しいものだ。
それよりも。
政宗の右目が失われた原因の一端が、自分にあるかもしれないという事。自身の存在が政宗の負担になって居る事。そちらの方が幸村の胸をひどく痛めた。
今世でも政宗の右目が、彼と彼の母との確執の原因でのひとつであるというのは、つい最近佐助がくれた雑誌の原本で読んで知ったばかりだ。だからこそ余計に心が痛い。
(……政宗殿は事故の責任を感じて、俺を弟として傍に置いて下さっていたのだな……自身も怪我をしていて病院に向かう為に車に乗っていただけなのに……しかも俺のせいで自身の右目を失ったかもしれぬのに)
幼い政宗が、さらに幼い赤の他人の幸村を弟とする事に、周囲の反対は当然あっただろう。きっと小十郎などは真っ先に反対した筈だ。だが幸村自身に、そんな空気が伝わって来た事がなかった。おそらく政宗が、周囲の雑音から完璧に幸村を守って来たのだ。それは小十郎の言っていたように、政宗にかなり無理を強いる事になっただろう。
(まさむねどの……)
兄弟でなければ、もしかしたら想いを遂げられるかもしれないという淡い期待が今まではあった。しかし自身が伊達幸村として育った原因を聞いた今。大好きな兄にとって自分が負担になっていると聞いてしまった以上。
(捨てなければ、この気持ちは……)
小十郎は、幸村が傍に居る限り、政宗は自身の幸せを考えないと言っていた。
幸村とて政宗に、今まで自分を守ってくれていた大好きな兄に、好きな人に、自分の幸せを掴んで欲しい気持ちはある。けれど。
(後少しだけ、猶予を下され……)
涙でぼやけた視界で、政宗と多くの時間を過ごした部屋を見回しながら、心の奥でそう許しを乞うた。
「旦那?!こんな薄着でどうしたの、風邪引くよ!」
「さすけ?」
「……泣いてたの?目、真っ赤」
マンションには政宗との幸せな時間の記憶が溢れすぎていて。辛くなってしまった幸村は無意識に外に出て。佐助のアパートの近くまで来てしまっていたらしい。佐助に声を掛けられ、幸村は初めて自分が外に居る事を理解した。
「さすけえ」
「え、ちょ旦那?!」
外に居る事実を意識した途端、急に寒さが襲い佐助にしがみ付く。いや冷えているのは体より心かも知れない。
「旦那、ほんとどうしたの……」
戸惑った様子ながらも、佐助は優しく背を撫でてくれて。その暖かさに、再び幸村の瞳から涙が零れた。
「旦那、そろそろ家帰った方が。もう9時なるよ」
「っ」
佐助の言葉に、いやいやというように首を振ってさらに彼の服をつかむ手に力を込める。
「ここにずっと居たらほんとに風邪引いちゃうよ……帰りたくないんなら、うちに来る?」
佐助のその提案に頷こうとした時。
「幸!!」
背中越しに政宗の声が聞こえた気がした。
「幸!」
「あにうえ?」
振り返ると、そこには厳しい顔をした政宗が居て。こちらに手を差し出している。普段ならすぐにその手を取る幸村だが。小十郎の話を聞いた直後の今。自分にその手を求める資格があるとは思えず。
政宗の視線から逃げるように、佐助の胸に顔を埋める。だがその行動は政宗を怒らせたようで。
「何やってる幸!帰るぞ!!」
「お、おい、あんたっ」
佐助の胸から乱暴に引き剥がされ、政宗の肩に荷物のように担ぎ上げられる。佐助が声を上げたが、政宗は無視してその場から離れるべく足早に歩き出した。
「っ!」
近くに停めてあったらしい車の後部座席に、乱暴に投げ入れられ息が詰まる。今までこんな風に乱暴に扱われた事はない。
政宗が怒っている理由が幸村には分からず。
更に涙が零れた。
「兄上、自分で歩けるでござるっ」
家に着き、再び抱え上げられて思わずそう伝えるが、政宗は無言で。
そして今度は彼の部屋のベッドの上に放られた。
「あにうえ?」
「……幸、あの男はなんだ」
覆いかぶさられ。低い声で尋ねられる。
「……」
佐助の事を前世の記憶のない政宗に説明するのは難しい。どう伝えようか悩み考え込むが。どうやら政宗は答えを求めていた訳ではないらしく。
「あの男が好きなのか」
「?!」
早々と次の質問に移った政宗の言葉に、幸村は大きく目を見開いた。
「あにう「渡さねえ……幸は俺がずっと守って来たんだ……俺のだ」
「ぁっ、んぅ」
暗い光を湛えた政宗の隻眼が近付いてきて。思わず目を閉じると、唇に柔らかい感触。
(キスされてる?)
今まで親愛の情として頬や額に口付けを落とされる事は何度もあった。だが唇に触れられるのは初めてで。
「ん、んう」
口付けは段々深く、舌を絡めるほどのものになり。
キスだけで全身の力が抜けそうな気持ち良さを与えられてしまう。
「はぁはぁっ」
唇が離れて、幸村が脱力した体をベッドに預け荒い息を吐いていると。
「!」
政宗の手が、幸村の着ていたシャツを乱暴に引き破り。
「あ、あにうえっ」
更に両手を頭の上で一纏めにされ、政宗のしていたネクタイできつく縛られ、動揺した声が零れた。
だが政宗は幸村の声など全く意に介さず、今度は下を脱がしていく。
「やっ」
今までも風呂は一緒に入っていたから、お互いの裸は見慣れたもののはずだったが、風呂の時とは状況が違う。
すぐに裸に剥かれてしまった幸村は、恥ずかしさで政宗の視線から逃れるようにシーツに顔を伏せ瞳を閉じた。
その様子は政宗に誤解を与えたようで……。
「……嫌か、幸。でももう止めてやれねえ」
「ひゃうっ」
政宗の手が乱暴に、だが確実に快感を引き出すように幸村の中心を扱く。
(政宗殿、違う……この行為が俺と同じ気持ちから来ているのなら……嫌ではない。それ所か、ずっと望んでいた。しかし……)
自分が政宗の負担になっていると知ってしまった今。その想いを口にするのは憚られ。
「ふ、あぁ…!」
ただ与えられる快楽に声を上げるしか出来ない。
「あ、ひぁああっ!!」
先端に爪を立てられ、耐え切れず吐精してしまう。
「あ、あにうえ?!ひぐっ…痛!」
息を整える間もなく、今度は体を反転させられ政宗の方に腰を突き出した格好を取らされる。そして尻肉を割り開かれ、濡れた指を狭いその場所に差し入れられる痛みに声を上げた。
「幸、力抜け……」
背中越しに聞こえた政宗の声は、いつもの優しい『兄』の声ではなく、遠い過去によく聞いた幸村を求める『男』の声で。
(あの頃と同じ気持ちで俺を求めて下さっているのか?政宗殿……)
「……あの男とやってはいないみたいだな」
かなり長い時間をかけて、幸村の奥を指で解していた政宗がぽつりとそう呟く。
「なっ、佐助とはそのような関係では!……ぁああ!!ひうう」
そんな誤解だけはされたくないと、否定しようとするが。言い終わる前に今まで政宗の指を受け入れていた場所に、指とは比べ物にならない熱と質量を感じ。ただ悲鳴を上げるしか出来なくなる。
「ぐ、ぅあああ!!」
「幸、ゆき…ゆき」
後ろから貫かれ揺さぶられ。
行為に全く慣れていない体は、割ける様な痛みを訴えている。けれど。
耳元に聞こえる政宗が紡ぐ自分の名。どこかせつない響きを持ったそれは、自分を欲してくれている証の様な気がして。
(この体勢でよかった……俺の本当の気持ちを悟られずに済む……)
きっと今自分はただ苦痛に耐えている顔ではなく、どこか満たされた顔をしていると思う。けれどそれは政宗に知られてはいけない。
……本当は政宗の顔が見たい。自分を他に渡さないと言ってくれた彼の顔を。
けれど彼の顔を見たら自分の決心は鈍ってしまう。だからそれは許されない事だと言い聞かせ、幸村はただ政宗から与えられる熱と痛みを享受し続けた。
(……気を失って?……政宗殿は?)
途中から記憶がない。縛られていた手も解放されている。腰を中心にかなりの痛みはあるが、不快感はなく。それは政宗が既に後処理をした事を示していた。ベッドの上から部屋を見回した限り、政宗の姿はなかったが。
(!)
カチャリと部屋のドアが音を立てる。それは当然政宗が部屋に戻って来た事を示していて。
幸村は思わず寝た振りを決め込んだ。
「……ゆき」
ベッドの傍まで来た政宗が呟いたそれは、ひどく力なく。
(まさむねどの?)
「ゆき、悪ぃ……良い兄ちゃんで居てやれなくて。……ごめんな」
謝罪の声と共に、頬に水滴のようなものが落ちてきたのを感じ。
(まさむねどの、泣いて?!)
今まで彼が涙を流している場面になど、遭遇した事がなかった。
(俺は嫌ではなかった……だから、泣かないでくだされ)
彼の背に手を伸ばして抱きしめたい衝動を負い殺して、心の中でだけそう告げる。
ここで政宗の誤解を解く訳にはいかなかった。
(俺の想いを伝えたら、政宗殿は俺をきっと探してしまう)
政宗の自身に対する気持ちは、はっきりとは分からない。渡さない、と言って求めてくれたが、好きという言葉は聞けなかったから。けれど政宗が自分を好いていてくれたとしても。血の繋がりが全くない上に、自身の存在が政宗の負担になっていると告げられた以上、もう彼の傍に居る事は出来ない。
今日の事。それに対する政宗の誤解を解かずに彼の傍から消えれば、政宗は自分を探し出す事はしないだろう。
強引に体を奪った兄から逃げた、と思う筈だ。
(俺は、政宗殿がずっと好きで……その気持ちは変わらない。けれど)
小十郎に言われた言葉を思い出す。
『お前が傍に居る限り、政宗様は自身の幸せを考えねえ』
(……俺はもう充分過ぎる程に政宗殿から幸せをいただいた)
(だから、今度はご自分の幸せを追って下され)
涙で霞んだ視界で、二人で暮らしていたマンションを見上げる。
数日。政宗はこのマンションには帰っていなかった。
(会ってしまうと決心が鈍るから丁度良かったのだ……)
今日、幸村はここを去る。
全く決めていない。小十郎から『連絡してくれれば出来る限り援助はする』という言葉と共に名刺を貰っていたが、これ以上伊達家の人間に頼るのは嫌だった。
(佐助を頼るのも、政宗殿を裏切っているような気がして気が引ける……)
何も決まっていないし、不安だらけだが。
(政宗殿から離れねば……)
ただその想いに突き動かされて、幸村はマンションに背を向けて歩き始めた。