6月の花嫁

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「そんな顔するなって」
 遅かれ早かれいずれは避けられないことだって、分かってただろ?そりゃ俺だってそれって無理じゃねと言いつつも、お前の願いを叶えてやれたらいいなって気持ちはあったけど。
 まるで世界が終わってしまったかのような表情を浮かべた幼馴染みに笑い掛ける。いつものように軽い調子で。
 最も途中に挟まる苦しさ故の荒い息遣いが邪魔をするから、本当に普段通りの声と笑顔を作れているから分からない。
 もう少し立てば手首に刺されたチューブ状の針から注入されている痛み止めが効いて来るだろうが、今はまだ苦しい。けれど。
 バースデイは強引に笑みを浮かべ続けた。
 自分よりずっと苦しそうなレシオの為に。


 身に巣食う病魔。
 それが再び目を醒まし牙を剥いたのは。
 バースデイが誕生日を迎える少し前のこと、だった。



 二人の関係が幼馴染み、親友、相棒という所謂友人としての枠内で留まっていたのは。
 ひとえにバースデイがレシオの想いをすり抜けるようにして過ごして来たから、だ。共に過ごして来た長い時間の中で、何度も伝えられそうになったレシオの心を、時には無視し時にはからかいとともに流して来たから、だ。
 嫌だった訳ではない。嫌ならこんなに長い年月一緒に居ない。
 ただ、それは自分が受け取って良いものでは、受け取るべきものではないと思っていたから。けれど……。

(レシオちゃん?)
 痛み止めが効いていたのだろう。消灯時間の過ぎた病室のベッドでうとうとと浅い眠りをたゆたっていたバースデイは、傍らに馴染んだ気配が在るのを感じ重い瞼を上げようとして。
 動きを止めた。
 レシオの気配がすぐ傍に近付いて来る。顔に彼の吐く息が掛かるほど近くに。
「……バースデイ」
 唇がぎりぎり触れない程度の距離で呟かれた名前に、ずきんと胸が痛む。
 名前を呼ばれただけなのに、その声にはレシオの自分への想いが詰まっている、そう感じる。そしてそれは気のせいではないだろう。
 こんな風に呼ばれるのは今日が初めてではない。
 気付いたのは入院して3日目の夜だったけれど、もしかしたら彼は入院初日からこの行動を繰り返していたのかも知れない。
 触れるぎりぎりまで近付いて来るのに決して触れはしないのは、この身が彼の想いを受け入れていないからだろう。彼は酷く真面目で誠実な男、だから。
 今まで彼の想いを受け取るべきではないと思っていたけれど。
 この彼の行動を知ってから、その気持ちが揺らいでいる。
 こんな風に切なそうに愛しそうに自分の名を呼び続ける彼の想いから、逃げたまま終わってしまって良いのだろうか。
 そして自分自身が、彼とこのままの状態で別れて後悔しないだろうか、と。


 レシオは昼間殆ど、いや全くと言っていいほど、バースデイの病室に顔を見せない。彼自身はこの病院に勤務していて、休み時間や手隙の時間に顔を出すのは簡単だろうに。
 その行動の理由をバースデイは今日まで誤解していた。
 レシオが自分が寝ている時間にしか部屋を訪れないその理由を、起きている際の発作で苦しむ自分の顔を見たくないのだと思っていた。けれど。
 そうではなかったのだ。

「ん」
 病室の窓のカーテン越しに降り注ぐ陽光が梅雨の合間の久々の晴天を知らせる。
 外はさぞかし暑いのだろうが、適温に保たれた部屋の中にはその暑さは届かない。
 バースデイが居る病室は多分、この病院で一番高い部屋だ。手配をしたのはレシオだろう。以前怪我をして入院した際も、ここほどではないがかなり上等な部屋に入れられた。最も彼はそれを恩着せがましく主張することなく、高級な病室を用意する真意は分からないけれど。もしかしたら、普通の病棟では自分が幼い頃に過ごした日を思い出して辛いのでは、という彼の気遣いかも知れない。自分の家は裕福ではなかったから、昔苦しい長い時間を過ごしたのは普通の病室だったから。しかし。
 幼い頃手術によって一旦抑え付けることに成功した病気が再発したのだ。怪我で入院した時とは違って、嫌でも思い出す。
 同じ病気に苦しんでいたあの頃を。心配げに見つめる祖父母の表情を。


 両親は居なかったから、祖父母がバースデイの親も同然だった。
 人に自慢出来る親孝行なんて出来なかったけれど。祖父母より先に逝かなかったことを彼等はそれぞれのいまわの際に喜んでくれて、それが救いだった。
 祖父が逝った後、程なくして祖母も亡くなり。バースデイの家族は居なくなった。
 それをはっきりと自覚したのは、質素な葬儀を終え、誰も居ない家に帰宅した時だった。
「大丈夫か」
 ずっと傍に着いていてくれた筈のレシオの声。今日初めて聞いた気がする。自分が認識していなかったのか、それとも彼が今まで気を遣って声を掛けなかっただけか。
 こくんと頷いて。
「じーちゃんの時も思ったけど、看取ってやれて良かったぜ〜」
 俺ちゃん、二人よりずっと早く逝っちまう可能性高かったからよ。
 軽い調子で返した筈の言葉は、冷たい部屋の空気の中、酷く震えて響いた。
 普段なら自分の病気を、短命を匂わせる発言はレシオを怒らせるものだったが。今日ばかりは彼も何も言わない。かわりに。
 延びてきた手に葬儀が終わった後掛けていたサングラスを奪われた後。
 抱き締められて。
「ふっ」
 彼の温度に触れた瞬間。目尻にぎりぎりの所で留まっていた水が涙となってぽたぽたと零れ落ちた。
 それは家族を永遠に喪った故の哀しみの涙でもあり。同時に。
 まだ自分にはこんな時に見守ってくれる相手がまだ居る。それを実感しての安堵の涙でもあった。
 いずれは彼の手も離さなければいけない日が来るとは分かっている。
 これまでに何度か彼を突き放そうとしたこともあったけれど。
 今はその度に彼が自分を追って来て。隣に在り続けてくれていることにただ感謝した。


 結局最後まで手を離してやれなかったな。
 レシオの本当の気持ちは受け入れないまま、彼に甘え続けてこれまで来てしまった。
 命の期限が近付いている今、この身は彼に何を与えられるだろう。
 そんな事を考えていると。
 ふと病室のドアの向こうから漏れ聞こえてくる会話が耳に入った。 声からして看護士同士の会話。その話題のの中心は先程までバースデイの頭を占めていた人物で。
 思わず聞き耳を立てて様子を伺った。
 ……馬鹿だなレシオ。
 看護士達が去っていった後、浮かんだのはそんな言葉だ。
 昼間彼が姿を見せない理由。それは研究棟が空いている間は食事の時間すら惜しみ、探しているからだと看護士の話で知った。
 探しているのはバースデイの病気の治療法。
 今までだってお前はずっと探してたじゃないか。でも見付からなかったんだろう?それなのに。
 こんな状況になっても、まだ彼は諦めていないらしい。
 バースデイに残された時間の内にレシオが治療法を見付ける可能性は限りなく低い。彼の他にもこの病を研究している医学者は沢山いて。けれど今まで誰も治療法を見付けては居ないのだから。
 レシオの時間を犠牲にして探して探して努力して。残った結果が自分を喪うことだけだったら。
 あいつには傷だけしか残らないんじゃないか?
 そんなのは嫌だ。
 そんな傷を彼の心に遺すより……。
 壁に掛けられたカレンダーを確認する。今日は11日。自分の名前を示す日は数日後に迫っている。
 今日レシオがここを訪れたら、家に一旦帰りたいと伝えようと決めた。
 レシオの家だけれど、自分が転がり込んだことを彼が容認した日から二人の家となり、共に過ごした思い出が沢山詰まった場所。
 そこで過ごしたい、と。


 珍しく昼にレシオが病室に姿を現した。眼帯で隠されていない左目の下には隈が滲んでいる。
 家に、二人で暮らしていたマンションに戻りたいと伝えたら彼は渋い顔を見せた。そんな彼を説得してくれたのは丁度その場に居合わせたバースデイの主治医だ。ここに居ても痛み止めの点滴くらいしか出来ないし、レシオ先生の家でもそれくらいは出来るだろう?先生がついているんだから、と。
 担当医の言葉を受け、暫しの沈黙の後。レシオは唇を噛み締めながら小さく頷いていた。
 痛み止めくらいしか、その程度の対応しかもう残されていない、それをバースデイの主治医の口から改めて思い知らされて歯痒いのだろう。
「……今日中に手続きと準備をする。帰れるのは明日の夕方になるが、それで良いな?」
「うん、ありがとーレシオちゃん」
 今日は幾分体調も良いし、明日この病室から解放されて家へ戻れるとなれば心も軽くなり声も弾む。
 バースデイの楽しげな様子を受けて、レシオも小さく笑みを浮かべていたものの。
「また明日準備が出来たら来る」
 そう告げて病室から去って行く背中は、その広さに反して、酷く弱々しく見えた。


 何か一週間ちょいなのに凄く久々に帰ってきた気がすんな〜とレシオの腕の中で呟く。今日は随分体調が良いし、自分で歩けると伝えたのだが病室のベッドから降りる際に暫く歩いていなかったからかよろめいてしまい、レシオに抱き留められて。その後は彼に抱えられて移動することになってしまった。

「!」
 リビングのソファに下ろされ、レシオが車を駐車場に入れに行っている間。部屋を見回したバースデイは、すぐ傍にあった小さめなゴミ箱に無造作に放り込まれたものに気付いて目を見開いた。
 一番上にあった銀色のパックを摘まみ上げる。
 数日前に聞いた看護士達の会話が脳裏に甦った。
 ……前は食べるの嫌がってたじゃねーか。俺がたまに買ってるの見付けるだけでも嫌な顔してたってのに。
 バースデイが手にしている秒単位で栄養補給が出来るというのが売りのゼリー飲料も、ぱさぱさしたフルーツ味のバー状の固形物もレシオが好まなかったものだ。それらの空き容器が、ゴミ箱の中で山を成している。
 それが何を意味するか、バースデイには痛いほど伝わって来た。自身の食事よりも睡眠よりもレシオにとって優先すべきなのはバースデイの病の治療法を見付け出すことになっているのだ。
 ……でも、もう俺はそんなの望んでないから……。
 再発前は「俺が絶対お前を治してみせる」という彼に「期待してるぜドクター」と軽い調子で返したりもした。しかし時間がない。これから先残された刻の中、自分を救おうとして苦しむ彼を見て過ごすなんて御免だ。
「バースデイ?何をして」
 部屋に戻って来たレシオの言葉がバースデイの手に有るものを見て途中で止まる。普段バースデイがこの手の物を購入しているのを見付けた際には、口煩く注意して来ていたから罰が悪いのだろう。
「な〜俺あれ食べてーんだけど」
 手にしているものとゴミ箱の中身には敢えて触れず、いくつかの品を口にする。サラダや惣菜を店の名前指定付きで。全てこのマンションから徒歩で5分以内にある店だ。
 分かった、と頷いたレシオが再び部屋から出ていった後、バースデイは大きく息を吐いた。
 本当は食欲なんてない。ただ自分が食べて、彼に残りを押し付ければ少しは口にするだろうからそれを狙って嘘を吐いた。レシオも多分分かっているだろう。

 狙い通りに、バースデイが食べたいと言ってレシオが買って来たポテトサラダやチキン、フルーツジュースなどの大半は結局レシオの異に収まった。最もバースデイの体調を把握しているレシオが買ってきたそれらの量は一人分よりも更に少ない風だったから、むしろ必要栄養分にはまだ全然足りていないだろう。それでも、ゴミ箱に溜まっていた味気ない栄養補給食品達よりはましな筈だ。
 ……俺が作ってやれれば良かったんだろうけど。
 ついこの間まで、この家で暮らしていた時は毎日ではないが料理をしていた。大雑把な性格から少し焦がしたり、好奇心から変な調味料を入れたりして失敗することも多々あったけれど。余程酷いものを作った時以外、レシオは僅かに笑みを浮かべながらバースデイの作った料理を食べてくれて。その優しい表情が好きだった。
 比較的体調が良い時なら、例えば今なら簡単なものなら作れそうな気がするが、体力の消耗は避けられないだろうし、それをレシオが許すとは思えなかった。
 それに、バースデイも消耗するのは別のことでと決めていて。それ以外に向ける余裕なんてなかった。

 夕食を終えレシオに手伝って貰いながらシャワーを浴びて。痛み止めの点滴を打ちながらソファに座って大して興味のないテレビを流し見する。時刻は23時30分。病院の消灯時間はとっくに過ぎているが、バースデイの後にシャワーを浴びてリビングに戻って来たレシオから小言はなく。彼はバースデイの隣に腰を下ろした。
 彼の口から小言が出ないのは、もうすぐ迎える明日の日付けのお陰だろう。
 後数分で新しい日を迎えるというタイミングで、テレビの電源を消した。
 これからレシオに伝えようと思っている言葉がある。
 それを雑音で邪魔されたくなかった。
 じっと壁掛け時計を見つめて、短針と長針が重なり合う瞬間を待つ。
 いよいよその刻が訪れて、バースデイが言葉を告げるより早く。
 レシオが口を開いた。
 誕生日おめでとう、と。

「ん、有難うレシオちゃん。……あのさ」
 俺、欲しいものがあるんだけど。すっごく欲しいものがさ。
 真っ直ぐレシオを見つめながら言葉を紡ぐ。
「……俺に用意出来るものか?」
 お前はたまにとんでもないものを欲しがるから、と返すレシオに笑い、その肩に手を掛けて囁く。
「レシオにしか用意出来ない」
 体を支える為に腰に回された手から伝わる温度を感じながら。バースデイはレシオとの距離を更に詰めた。
 目的を理解したのだろう。青い左目が大きく見開かれる。澄んだその色を視界に納めた後。彼の唇に自分の唇で触れて。
 瞼を下ろした。
 お互いそのまま動かなかったから、触れるだけの口付けは長く続き。 バースデイがゆっくりと唇を離した後も、レシオは驚愕の表情を浮かべたままで。
「バースデイ?」
 彼の低く掠れた声が説明を求めるように名前を呼んだ。
「ずっとお前の心から逃げ続けてごめんな。嫌だった訳じゃねえよ?お前より自覚したのは少し遅かったけど、俺だってお前が好きだった。……ただ、お前の手は俺が掴んでがんじがらめにしちゃ駄目なものだって思ってたから」
 一旦言葉を切る。
 逃げていた真の理由を口にするか少し悩んで結局止めた。レシオに気を遣ったのではない。彼に未来を約束出来ないことを音にして、自分の心が改めて傷付くのが怖かっただけだ。
「でもこんな状況になっちまって、自分に時間がないって分かって」
 もう我慢出来なくなっちまった。元から欲しいもの我慢するような性格じゃねえしな。
 なぁレシオ。俺はさ、残りの時間俺を治そうとして自分の時間すら蔑ろにして頑張って苦しむお前より、俺との時間を大切にしてくれるお前と、俺の傍で笑ってくれるお前と過ごしてえよ。
 俺がお前に与えられるものなんて殆どないけど。
 今からこの心と体は全部お前にやる。だから。
 お前も俺にちょうだい?
 今まで俺が逃げ続けて来た想いを。これからの時間を。

 俺の最期の時まで、という台詞は、心の中だけで告げた。
 病院のベッドで何度も何度も考えた告白だったのに、いざ口にするとあれもこれもと伝えようとしてしまい、纏まりのないものになってしまった。でも言いたいことは全て言えた筈だ。

「……バースデイ」
 見開かれていたレシオの瞳が数回瞬きを繰り返して。ぽたぽたと涙の雫が頬を伝っていく。
 昔に比べて体の方は随分逞しく成長したと思うけれど、今彼が浮かべている表情を見ると内面は余り変わっていないのだと感じた。
 そんな彼に今更こんな感情をぶつけるのは残酷なのかも知れないけれど。
 伝えた言葉にバースデイ自身の後悔はなかった。

 バースデイ、バースデイとただ名を繰り返すレシオに抱き締められる。体と点滴の刺さった腕を気遣ってだろう、強い力ではない。
 もっと強くしてくれても壊れないのに、何て思いながらレシオの頭を撫でて。彼の頬を濡らす雫に舌を這わせた。
 しょっぱい。でも嫌な味じゃない。
 レシオの涙が止まるまで、バースデイは舌で彼の涙の味を感じ続けた。
 点滴が後少しで終わるという所で、レシオの瞳から零れていた涙が漸く止まる。
 バースデイの体を解放して次の点滴を取りに行こうとした彼を、腕を掴んで引き留めた。
「これ、一度抜いて?」
 手首に刺さった針を示しながら。
 疑問符を浮かべながらも針を抜いて消毒してくれたレシオに向き直り、先程まで濡れていた頬を手で包み込む。
「な、しよ?」
「っ」
 意味を理解したレシオが動揺と共に顔を紅潮させる。そんな彼がお前の体の負担がと言い出すのは、予想の範疇内だった。
「主治医のセンセに聞いたから大丈夫」
「!」
「これから先もっと弱ったら無理だろうけど、今ならまだ痛み止めが効いてる間なら1回くらいなら耐えられるって」
 レシオの全部を俺にくれよ。お前が俺をずっと欲しがってたこと、俺は知ってる。だから……。
 相談を持ち掛けた際、主治医は余り驚いた顔は見せなかった。現状なら発作が起きない限り大丈夫とは思うけれど、万が一発作が起きたり異常を感じたら直ぐにやめるんだよ、とバースデイの頭を撫でた後。小さな声で。
「レシオ先生?」
 何て聞いて来た。
 それには言葉ではなく笑みを浮かべることで肯定して、レシオちゃんそんなに分かりやすい?それとも俺ちゃんの方?と聞き返してみると。
「他の人は多分気付いてないと思うけど僕はずっと見て来たからね」
 分かりやすいのはレシオ先生の方だな、彼はいつだって君が最優先だったから。
 そんな答えが反って来て。更に。
 治せなかったことへの謝罪と共に。後悔のないように過ごしなさい、ともう一度頭を撫でられたのはつい先日のことだ。
「……俺には今が最後の機会かも知れねーし」
 ちょうだいよレシオちゃん。
 普段通りの軽い調子で、こちらに視線を向けたまま動かないレシオに畳み掛ける。
「……きつかったら必ず伝えろ。後」
 もしその時俺が止まらなかったら殴ってでも止めてくれ、と真顔で言う幼馴染みに。
「ん」
 とバースデイは頷いて瞳を閉じた。
 レシオからのキスを受け入れる為に。

 大丈夫か?と心配気な声が瞼の向こうで響いて。バースデイは声の主を安心させる為にゆっくりと瞳を開けて。こちらを覗き込んでいるレシオにふにゃと笑い掛けた。
 体はレシオが拭いてくれたのだろう。ベッドに横たわる体はさっぱりしていて、清潔なシャツが着せられている。
 初めてだしレシオのものは大きいわで当然ながら繋がった際に痛みはあった。しかしその痛みよりも彼の温度を、薄い無機物の膜越しではあったけれど。普段より寄り一層近くに、自分とレシオの温度が混じり合っていると思えるほどに近くに感じられて。彼を全部手に入れることが叶ったのだと感じ、バースデイの重い体はふわふわとした幸福に包まれていた。
「ん、だいじょーぶ。あれ?」
 レシオの指が髪を透く感触を、目を細めて受け入れていたが。自分の左手指に僅かな違和感を覚えて、緩慢な動きで手を自分の視界の範囲内へと移動する。
「ゆびわ?」
 違和感の正体は、左手の薬指に嵌められたリング、だった。
「今まではお前の心は俺のものではなかったから」
 渡せなかった、でも俺に全部くれると言ってくれた今ならこれを贈っても許されると思った。
 レシオの声を聞きながらぼうっとリングを眺める。その様子を何やら勘違いしたらしいレシオが、それが気に入らないなら、と呟きながら部屋から出て行ってしまった。
「ちょっと待てレシオちゃん、何これ!?」
 直ぐに戻って来た彼は小さな紙袋を抱えていて、その中身がバースデイに見えやすいようにとベッドサイドのテーブルの上に並べられて。思わず突っ込みの声が出た。
 10個には満たないが、確実に5個以上はあるデザインの違う指輪が、バースデイの視線の先で部屋の照明を受けて煌めいている。
 バースデイの突っ込みに対して、返って来たレシオの言葉は酷く真面目なものだった。

 お前への気持ちを自覚した年から、お前への誕生日プレゼントに毎年指輪を買うようになって。だがお前は俺の心を躱してばかりで受け取ってくれなかったから、贈ることなんて出来なかった。恋人でもない相手から指輪なんて貰っても困るだけだろうしな……。
 毎年お前の誕生日が近付く度に今年は違うものをと思いつつも、買うのは止められなかくて、この様だ。
 この指輪達はお前が貰ってくれなければ意味を成さない。
 中には学生の頃に買った安物もあるが。
 貰ってくれるか?

 並べられた指輪を、レシオの想いが籠められたそれを。もうからかう気になんてなれなかった。
 お前こんなに長い間俺を、応えなかった相手を想い続けて来たんだな。嫌になってもういいって諦めても可笑しくないような長い間。
「日替わりで付け替えできそうねん」
 レシオの真っ直ぐな想いを受けて震えそうになる声音を誤魔化すように明るく、間接的な言葉でバースデイは受け取るよと告げた。


 レシオが毎年自分の誕生日に休みを取っているのは知っているから。バースデイは彼に連れてって欲しい所があるんだけど、と頼み込んだ。
 最初は少し渋っていたけれど、場所を告げると分かったと頷いてくれて。
 今は彼の運転する車の助手席だ。
 バースデイが示した場所はそう遠くはないから、レシオも外出を許してくれたのだろう。
 外出前に点滴タイプではない痛み止めの注射は、しっかりと打たれたけれど。
 車が目指しているのは、バースデイの祖父母の墓が在る墓地。
 彼等に今の状況を報告したいと思ったのだ。病気は残念ながら再発してしまったけれど。
 寂しい最期を迎えることはない筈だから安心してくれと。
 自分は一人ではないから。想いを交わした相手が最期まで傍に居てくれるだろうから。

 なあレシオちゃん。
 墓参りを終えて、レシオの腕に抱えられての車までの移動の間、バースデイは彼に向かって話し掛ける。
 俺は今まで何度かお前の手を離そうとしたことがあるけど。じーちゃんの後にばーちゃんが亡くなって家族が居なくなって。その時にお前が傍についててくれて、凄く安心したんだ。俺はまだ一人じゃないって。それまでももしかしたら離そうとしてたつもりだけ、だったのかもな。お前は俺から離れないって心の奥のどこかで感じてたから、突き放すポーズも取れたのかもな。
 ずるいよな、お前は俺への気持ちを解放するのを許されずに苦しかっただろうに。
「……その狡さが」
 俺がお前の傍に居ることを赦したのならば、俺はそれに感謝しなければならないだろう。
「レシオちゃんはほんと根っこでは俺に甘いねえ」
 けれどその甘さに随分と助けられて来たことは良く分かっている。今までそれに対して明確な感謝を伝えたことはなかったけれど。
「ありがとうな」
 こんな我が儘な俺を肯定し続けてくれて。
 残された時間が少ないと自覚している今だからこそ、その言葉を口にした。


「何で6月なのかねえ」
 6月なんて月の大半は梅雨期間で、天気に恵まれる日も少ないだろうに。
 以前はなかったと思うのだが、墓地からレシオが車を停めている駐車場までの道沿いにかなり大きな式場が建っていて。どうやら数組のカップルの結婚式がそれぞれ別のホールで行われているらしく。その内の一組が整備された芝生の上で今まさにブーケトスを行おうとしていた。
 ジューンブライドの由縁をバースデイは知らないけれど、6月に挙式したがるカップル、主に女性が多いのは知っている。
「えっ」
 何かスポーツでもやっているのか、力強く花嫁が投げたブーケは勢いがつきすぎて。彼女の前に居た参列者を通り越し。
 レシオに抱えられたバースデイの膝の上に落ちた。
 こういうのって大体渡したい相手決まってるんだよなぁ。
 新婦の友人の独身女性に予め貴女に向かって投げるからと伝えられていることが多いはずだ。
 膝の上のブーケをちらと見やった後、レシオに視線を向ける。
「返しに行くか」
 レシオの呟きに頷いたバースデイの視界に、白いドレスを身に付けた花嫁が駆けて来るのが映った。

 帰り道、レシオの車の助手席に座るバースデイの膝にはブーケが未だにある。
 新婦から迷惑でなければ貰って欲しいと言われたのだ。友人達の誰に渡っても少し微妙な空気になりそうだったから誰に投げるかも決めていなかった、と。 良い人達なんだけど皆結婚願望強くて、と苦笑する彼女にそれならばと受け取った。
 末永くお幸せにと伝えて。
 彼女の少し後ろで話を聞いていた新郎がそれを受けてしっかりと頷いた姿が印象深かった。
 彼の脳裡にはこれから先長い間二人で過ごすビジョンが明確に見えているのだろう。未来に想いを馳せることが許されている彼等が全く羨ましくないと言えば嘘になるけれど。自分が好き勝手に生きてきたこれまでの時間を後悔はしていないから、素直に祝福出来た。
「ブーケ貰っちゃったし、結婚式でもする?」
 ブーケと自分の左手薬指に収まっているリングに視線を送る。つけているのはレシオ曰く学生時代に購入した安物。病気が再発してから指も少し細くなってしまったようで他のもの達は僅かに緩く、昔のバースデイのサイズに合わせて購入されたこれが今は一番ぴったりになっていたのだ。
 結婚式に対するレシオからの反応はなかったが、この国では男同士で結婚なんて出来ないし、単なる冗談のつもりだったから。
 車内に落ちた沈黙も、特には気にはならなかったし、この話はこれでおしまいだと考えていたのだ。
 だから翌日、一旦病院に戻った際。
 レシオから突如告げられた言葉に、バースデイは驚いた。


「レシオちゃん?」
 自分の前に跪くような形になった彼に首を傾げる。
 バースデイとレシオが居るのは病院の中庭、木々の影になっている場所で、周囲に人影はない。
 今日は天気が良いから外に出たいというバースデイの我が儘を、レシオが昼休みを利用して叶えてくれて。ベンチに体をそっと下ろされた直後の出来事だった。
「居るか居ないか分からないような神に誓うより」
 お前に直接誓った方が良い。
 レシオの手がバースデイの左手を取り。
「お前が俺の全てを望んでくれたから……俺の心も体も、」
 永遠に、未来永劫お前に捧げると誓おう。
 唇がゆっくりと指輪に触れる。
 レシオが指輪への口付けの為に俯いている間、彼を見つめる視界が揺らいでいく。けれど久し振りにかけているサングラスのお陰でそれを悟られはしないだろう。
「あはは、気障過ぎだろお前っ」
 顔を上げた彼に向かってからかいの声を掛けて、滲みそうになっている涙を誤魔化した。
 俺さ。
 心の中でだけ言葉を紡ぐ。
 誕生日にお前と初めて繋がって、幸せだったけど。俺が居なくなった後、お前はこの熱を誰かと分け合うのかって考えて。その時ああ嫌だなって思ったんだ。俺だけがこの熱を知っていたいって。そんなこと願って良いはずないのに。
 けどこんな俺にお前は永遠を誓ってくれるんだな。


 センセって車運転出来る?、との質問は主治医に投げ掛けたものだ。
 主治医の出来るよとの答えにバースデイは小さく息を吐いた後、センセ外来終わってるよな?ちょいと頼みがあるんだけど、と告げた。
「レシオ先生には知られたくない所に行くのかい?」
「まあそれに近いかな。でも別に怪しい場所とかじゃねーから!」
 そう、と笑った主治医はバースデイの頼みを聞いて早速外出の手配をしてくれるようだ。
「僕はレシオ先生みたいに力持じゃないから車椅子使うよ」
「お歳のセンセに俺を抱えろなんて言えるわけないっしょ」
 まだおじいちゃんではないつもりなんだけどねぇ、とぼやいて手配の為に病室を出て行く背中を見送った後。
 バースデイは握り締めていた右手を緩慢な動作で開いた。
 掌の上にある金属が、病室の照明を受けて煌めく。手にしているのはレシオから贈られた指輪の内、幅広のシルバーのリング。これに少し細工をしたいのだ。
 レシオには悟られないように。

「後うちに寄りたいんだけど。レシオが帰って来ない内に」
 店で目的を果たした後、一見今までと変わらない、けれど少しだけ様子の変わった銀のそれを手に、バースデイは主治医の車に戻り、次の我が儘を口にする。仕方ないなと言いながらも車はマンションへと向かってくれた。
 主治医が玄関まで押してくれた車椅子を降りて。リングだけを手にして部屋に足を踏み入れる。ほんの少しの時間ならばまだ 自力で歩くことが出来た。
 何処が良いかと思案して。浮かんだ考えを少しだけ自嘲気味に笑う。
 俺は最期のその先まで狡いままだ、と。
 その狡さを含めての自分なのだからと開き直って、思い付いた場所へと歩を進めた。


「体調は」
「ん〜まあまあかな」
 髪を梳くレシオの指の心地好さに目を細める。
 本当は、意識を保っていられる時間が短くなっているのを感じていたけれど。伝えて彼にわざわざ不安を与える必要はないと思った。
 バースデイ。
 囁いた彼の顔がゆっくりと近付いて来るのを見て反射的に瞼を下ろす。
 あの日以来、体を重ねるのは流石に無理だけど、代わりとばかりに唇に触れるようになった。
 今回はレシオからだが、バースデイから求めること方が多い。
 唇同士だけでなく、頬や額、手や髪にもキスを贈って過ごしている。
 けれどそれは主に病院に勤務する人々の人数が減る夜にであって、今みたいな昼はバースデイからは求めない。
 唇が離れた後。
「誰かに見られたらどうすんのドクター」
 少しだけ咎めるように伝えると、返ってきたのは。
「俺はお前が構わなければ平気だ」
 なんて答えだった。
「ん〜嫌って訳じゃねえけど」
 レシオちゃんの気持ちは俺だけが知ってれば良いかな。他の奴に知られるの何か勿体無い気がするし。レシオちゃんがこ〜んな顔して俺に触れるってのを知ってるのは俺だけでいーよん。
 独占欲を滲ませた台詞で、本心を隠す。自分達の周囲は優しい人々で溢れているけれど、男同士の恋愛は一般的なものではない。自分が居なくなった後、彼がこの病院で居辛くなる事態は避けたかった
 緩やかな動きで離れたレシオの肩越しに部屋に飾られた花瓶が見える。そこにある花はあの日膝に落ちてきたウエディングブーケだ。
 重くなって来た意識と瞼に逆らえず目を閉じる。閉じ切ってしまう瞬間まで、レシオの姿を瞳に映しながら。
 6月の花嫁。
 結局由来は調べていないし、自分は花嫁ではないけれど。
 この6月に幼馴染みに愛を誓われたこの身は確かに一生幸せだなと思った。その一生が人よりかなり短いものだとしても。



 レシオから贈られたシルバーの指輪。それは彼のマンションのかなり見付けにくい場所、彼が余り近付かない場所に隠してある。
 指輪の裏には。

 お前の誓いは俺が持っていくから。俺だけが覚えていれば良いから。
 お前はずっと俺に囚われる必要なんてない。

 英語でそう刻まれている。







(……眩しい)
 でも何故そんなことを感じるのだろう。
 止まらない咳、吐き出した大量の血の生暖かさを感じながらレシオの腕の中で意識を失った筈、なのに。それが自分の生きている時間の最期の記憶になると思っていたのに。
 数分の瞬きの後、漸く眩しさに慣れた目で、辺りを見回す。ベッドに寝かされている状態は変わっていないが、視界に映る景色は病院のものではない。かといって死後の世界のものとも思えない程現実的なものだった。更に自分に纏わりついていた死の気配、それが遠いものになっているのが分かった。病そのものの気配は、自分の体の奥にまだ感じるけれど。
「おはよう、バースデイ」
「っ」
 こちらを優しい表情で覗き込む幼馴染みに、疑問や驚きの表情はない。バースデイが起きるのを当たり前に待っていた様子だ。
 れしおちゃん、と呼ぼうとした名前は喉が酷く乾いていて音にならない。
 そこで漸く気付いた。自分の視界に、短いはずの前髪が見えていること。後ろ髪も普段触れない位置の肌に触れていること。幼馴染みの姿に、僅かに違和感があることに。
 バースデイが今日目覚める前に見た最後のレシオの姿、それは23歳の姿だった筈。けれど今傍に居る彼は自分の記憶にある彼より数年分成長して見える。
(あ、ここ)
 更にこの家が誰のものかも思い出した。幼い頃一度だけ連れて来てもらったことがある、主治医の実家だ。もう誰も住んでいないけれど手放し難くてね、都会の喧騒から離れたい時にたまに来るんだと言っていた。かなりの田舎で、村の人は優しいけれど余計な干渉はしてこないから有難いよ、とも呟いていたのを思い出す。
 自分を助ける為に何かを引き替えにして、レシオはここに、他人に干渉されない場所に居る。そう感じた。
「バースデイ」
 レシオの手がバースデイの頬を包み込んで、唇同士がゆっくりと触れ合った。
「……れしおちゃん」
 唇が離れた後、少しだけ潤いを取り戻した喉から掠れた声で何とか名前を紡ぐと。直後、レシオの瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちて、バースデイの頬を濡らす。先程までは笑みを浮かべバースデイの覚醒を疑っていないように見えたが、やはり目覚めないかもしれないという不安も大きく抱えていたのだろう。名前を呼ばれたことでその不安が一気に安堵に代わって気持ちが涙と共に溢れてしまったように見えた。
 俺の世界にはお前が居ないと意味がない。消え入りそうな声で告げる彼に、自分を助ける為に何を引き替えにしたかを聞くのは酷な気がして、こんな彼を分かっていて手放さなかった自分も共犯だろうと。バースデイはただ手を伸ばしてレシオの髪を撫で続けた。
 ふと視線を下にずらすと、珍しく寛げられたシャツの襟元にチェーンに通されたリングが見えた。それは確かにバースデイが裏に細工したシルバーリングだ。けれどちらりと見えた裏面に、刻んだはずの言葉は見えなくて、完全に贈られた時の状態に戻っていた。バースデイが遺そうとした言葉はレシオが消してしまったらしい。
(置いてくことも、誓いを俺だけのものにするのも許さないってか)
 愛が重いねえと内心呟きつつ。その重さが嫌ではないどころか心地良いとすら感じる自分に呆れながら。
「俺の病気ってさ、完治した訳じゃねえよな?だったら今度はお前の力で直してくれよ、ドクター」
 と告げ。
 眼帯に覆われていないレシオの左目が力を取り戻したのを確認して。
 バースデイはまだ動きのぎこちない手に何とか力を込めて、レシオを抱き寄せた。
(あ)
 壁に掛けられた日捲りのカレンダーが視界に飛び込んで来る。この日に目覚めたのは偶然なのか、それともレシオが予め計算していたのか。否、計算する余裕などなかっただろうから、きっと偶然だろう。
 数年眠っていた体はまだ自力で動かすのが難しく、何も出来ないけれど。
 自分が目覚めたことが彼にとっては最良のプレゼントになるのだろうと、バースデイは小さく唇の端を釣り上げた。

 9月3日。今日はレシオが生まれた日。
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