ふたりの熱を取り戻す刻まで



 激しい痛み、熱い刃によるそれを認識した瞬間。
 視界に映る全てのものの動きが、ゆったりと変化したような気がした。
 対峙していた蒼が、先程までの戦いを楽しんでいた表情とは一変して、隻眼を見開きこちらを呆然と見つめている。
 幸村が纏う紅とは正反対の蒼を纏った彼、奥州筆頭伊達政宗。
 幸村の唯一の好敵手。
 彼のこんな顔を見たのは、初めてかもしれない。
 政宗が右手に持つ三本の刃の内一刀が、幸村の胸を貫いているのに対して、彼は幸村の槍によって傷を負っているものの、致命傷となるような怪我はない。
 それは、最後の最後、決着の瞬間に。幸村が取った行動の結果、だった。
「――!!」
 残りの刃を放り出し、幸村の体をその腕に抱え上げた政宗が何か言っている。それは幸村を咎める言葉なのかもしれないが、生憎今の、意識が霞掛かっている幸村には、それを聞き取る事は出来なかった。
 彼の言葉は聞こえないけれど。
 まだなんとか口は開ける。普段のように大きな声は出せないけれど、辛うじて音は紡げる。
 全てを終えようとしている今だからこそ、伝えておきたかった。
 好敵手としての関係の延長上に、戦場以外でのお互いの熱を知りながらも。それ熱の奥にある想いに気付きながらも。口にしては駄目だと。ずっと、表に出すのは許されないと、心の奥底に閉じ込めてきた言葉を。
「……政宗殿、ずっと、貴殿を、お慕い……して、おりまし……た」
 幸村の言葉を受けた政宗の顔が歪む。まるで泣き出しそうに見える程に。これもまた、幸村が初めて目にする彼の表情だった。
 そんな顔をさせたいわけではない。
 約束していた訳ではないけれど、彼はこの状況とは別に望んでいた結末があった筈で。幸村もそうなれば幸せだろうという気持ちは抱いていて。自分は彼の心を裏切ったのかもしれない。
 けれど最後のあれは、幸村が政宗を想う故、彼の幸せを願う心が本当に無意識に取った行動だったから。
 どうか許してほしい。
 もし次の生があるのならば。想いを伝えても許される、彼と共に生きていく事が出来る世界が良い。
 それを口に出して伝えられたのかは、定かではないが。
 そんな思いを抱きながら、政宗の姿を見つめ。幸村は重さに耐えきれなくなった瞼を下ろした。
 もうこの世界で目覚めることはないだろう、と感じながら。


「んっ」
 窓のカーテン越しに差し込む柔らかい朝日を受け、真田幸村は意識を覚醒した。
(……また、あの夢を)
 寝ている間にいつもの夢を見ていた。自身の死に際の夢。と言ってもただの夢ではない事は、幸村自身が良く知っている。あれは遙か昔、戦国時代に生きていた幸村の実際の記憶だ。
 今の幸村は現代に生きる学生で、今日高校の入学式を迎える。
 前世の記憶を取り戻したのは、中学生になったばかりの頃で。溢れてくる昔の記憶に最初は驚いたものの、嫌悪はなかった。その中には大切な、幸せな記憶が沢山あったから。敬愛する主、厳しい言葉を向けて来る時もあるけれど何より幸村の事を考えてくれる従者、そして。唯一無二の好敵手、彼らと過ごした幸せな時間が。
 その好敵手に、秘めていた想いを、一方的にだがようやく伝えることが出来た自分の死に際の記憶も、幸村にとっては大切なもの、だった。
 過去の記憶と共に、昇華が叶わなかった想いも甦り。死に際にあんな顔をさせてしまった彼に、想い続けていた彼に再び出会いたい、今度こそ彼への想いを叶えたいという気持ちがあって。
 幸村は記憶が甦った時から彼を。
 伊達政宗を探している。
 探し始めて数年、未だ出会えてはいないけれど焦りはない。
 今はまだ、前世で彼と出会った年齢には達していないから、というのがその理由だった。
(……きっと、いつか出会える)
 前世で運命的な出会いをしたのだ。この世界でもどこかで二人の道は重なる筈だと、幸村はそう考えている。
「幸村〜」
「!」
 母が自分を呼ぶ声に、幸村は遠い過去に想いを馳せていた心を現実へと引き戻した。
 部屋のドアの向こうから朝食が出来たわよと伝えて来る母に、着替えが終わり次第すぐに行くと伝えて。幸村は自室の横にある浴室の洗面台で顔を洗い。部屋に戻って真新しい制服に身を包んでから朝食へと向かった。
「おはようござりまする」
 リビングで新聞を読んでいる父と、キッチンに立つ母に朝の挨拶をする。
 古風な言葉遣いは、記憶を取り戻すより前からで、記憶を取り戻す前から、魂に前世の言葉遣いが染み着いていたのかもしれない。両親は幸村の言葉遣いを不思議に感じている様子ではあったものの、おおらかで優しい彼らは息子の言葉遣いを無理矢理矯正したりはしなかった。
「行って参りまする!」
 朝食の後、身支度をして。
「良い出会いがあるといいわね」と母の言葉に見送られて。
 幸村は高校の入学式へと向かった。

 中学までの制服は学ランだったが、高校の制服は男女ともにブレザーで洒落ている。
 ネクタイは学年毎に色が違い、今年の一年生は濃い赤色。前世で幸村が身に付けていた紅の戦装束にも似た色で気に入っている。
 まだ入学式までには時間があるが、高校へ向かう道のりでぽつぽつと同じ制服を身に付けている人達を見掛け。彼らも幸村と同じように赤のネクタイを身に付けていて。この中にクラスメイトになる方が居るかもしれないな等と想像しつつ、足を進めた。
「!」
 校門の前には、新入生への案内をする為か、教師が数人立っている。
 校庭に植えられている桜の木は既に満開を過ぎていて、風に吹かれ花びらを散らしている。その花吹雪の下に立っている人物、幸村の方からまだ顔は確認できないが、彼を視界に捉えた瞬間。
 幸村の鼓動が大きく跳ねた。
 家を出る際に母に言われた言葉が頭をよぎる。
(早速、良い出会いを迎えられそうでござる)
 近付くにつれて、彼の容貌がはっきりと見えてくる。
(……ああ、やはり間違いない)
 白衣を着ているという事は養護教諭、いわゆる保健の先生なのだろうか。彼が先生になっているというのは、意外な気もしたし、逆にしっくりくる気もした。
 幸村の記憶にある姿より、幾分大人びて精悍さを増していたが。
 幸村が入学する校門の前に立っていた人物は。ずっと探し求めていた相手。前世での好敵手。
 伊達政宗、だった。

「政宗殿!」
 何と声を掛けようか悩みながら彼に近付いた幸村だが。彼の姿、この時代でも右目は何か異常があるのか長い前髪で隠している、その彼の左目が自分の姿を映した瞬間。
 幸村の唇からは自然と彼の名前が零れた。。
 周囲の視線が集まるが、気にならなかった。他ならぬ政宗に出会えたのだから。
 きっと「よう真田幸村」と前世のように唇の端を釣り上げた笑みで応えてくれる、と胸を高鳴らせた幸村に返ってきた彼の反応は。
「新入生、だよな?何でオレの名前を。親戚か?悪いが親戚多すぎて全員は覚えてねえんだよ。ってもアンタ位の歳の奴は居なかったと思うが」
 幸村の事など全く知らない、という態度のものだった。
「っ」
「名前は」
「……真田幸村と申しまする」
「真田、か。随分古風な言葉遣いだな。一年の教室は一階だ。クラスは玄関口にある掲示板で確認しろ。まあまずは体育館で入学式だが」
 僅かな期待を込めて名前を答えるが、政宗は事務的に新入生への案内を告げてきただけで。真田幸村という名前にも、特に反応を示す事はなかった。
 政宗が記憶を持っていないなど、幸村は思ってもみなかった。前世で初めて刃を交わした時から、幸村にとって政宗は特別で。また政宗も幸村を認めてくれていて。
 自分に興味がない政宗と対峙した事などなく。今、目の前の彼が自分に大した関心を示して居ない所か、全く覚えていないという事実に、酷く大きな衝撃を受けた。
「体育館は校門入って中庭突っ切った所だ。……入学おめでとう」
 政宗が言葉と共に幸村の制服の胸ポケット辺りに新入生用の紙で出来た花を飾る。幸村個人に向けたものでなく、きっと新入生全員に同じように贈っているであろう祝いの言葉を受け。
 幸村は唇を噛み締め、嗚咽を零しそうになるのを我慢して、有難うござりまする、と何とか礼を告げ。
 足早にその場を立ち去った。

 入学式を終え、教室で担任の挨拶を受けた後新入生はそのまま帰宅となる。
 帰り際、おそらく保健室用の備品が入っている段ボールを抱えた政宗とすれ違ったが。幸村がそっと視線を向けても、政宗がこちらを気にする事はなかった。
 そんな幸村の後ろから、「伊達先生さようなら!」と元気な女子の声が響く。
 入学式の際、体育館の壇上に並んだ教師陣の内、若く容姿の整った政宗は新入生の女生徒の人気を早くも浚っていた。きっと二年生三年生にも彼に好意を抱いている女子は多いだろう。
 女生徒の声を受けた政宗がこちらを向くが、彼の瞳は幸村を素通りし、挨拶を投げ掛けた女生徒に向かい、一応といった感じで無表情に軽く片手を上げた後、そのまま去って行った。

「……っ」
 帰って早々、自室に籠もりベッドに俯せに体を投げ出す。まだ早い時間だから、父は仕事で母もパートに出ていて留守なのを幸いに。
「う、くっ」
 幸村は学校に居る間ずっと我慢していた嗚咽を、涙と共に洩らした。
 遠い昔、前世で政宗は幸村の姿を目にすると、他の何よりも誰よりも優先して戦いを挑んできていて。アンタの姿を見るとどうしても魂が熱く騒いでかなわねえとまで言ってくれていた。それなのに。
(……あの政宗殿の魂に、俺の事は、俺との記憶は残って居らぬのであろうか……)
 幸村の心は、政宗の姿を視界に入れた瞬間、熱く跳ねたけれど。政宗の方にはそういう感覚はなかったのだろうか。
 記憶はなくとも、自分の姿に何か感じる所はなかったのだろうか。
 前世の記憶を持っていないならば仕方ないこととはいえ、今日の政宗の態度、その他大勢として扱われた事実は、幸村の心に大きな影を落とした。

(……ここ、は。ああ、いつもの夢、か)
 おそらく泣き疲れて眠ってしまったのだろう。幸村の目前に広がっているのは、見慣れた自室ではなく、荒れた山道だった。前世で良く馬を走らせた記憶のある。
 今も夢の中の自分は馬を操っていて、周囲の景色が流れていく。
 その景色の中に突如蒼が混じり。蒼の正体を認識した瞬間、幸村の心臓は大きく高鳴った。
「よう、真田幸村」
 今日の向こうの当初の目的は、自分ではなかっただろう。そもそも国主である政宗が、ただの一武将である自分にこだわる必要などないのだ。それでも。彼は幸村を好敵手と認め、今も隻眼にはっきりと幸村の姿だけを映している。戦ろうぜ、と。
 そしてこの日、二人の戦いは突然の豪雨で不完全燃焼に終わり。それがきっかけで、政宗と幸村の間には新たな関係が生まれたのだった。お互いの立場から、その関係の奥底にある心を、表沙汰にするのは許されなかったけれど。

「……」
 夢は政宗への気持ちを改めて自覚するもの、で。
 短い夢から目覚めた幸村は、やはり政宗に自分を見て欲しい、彼に過去を思い出して欲しいという想いを強く抱えていた。
 今は記憶がなくとも、彼が伊達政宗である以上、きっと魂のどこかに真田幸村の事を覚えてくれている筈だと自身に言い聞かせる。
 それに障害にぶつかったからといって、すぐに諦めるのは自分らしくない。過去、尊敬する主から不屈の闘志というものを学んだではないか、と。
 幸村は頬に残る涙を拳で拭い去った。
 
 入学式の日は政宗が前世の記憶を持っていなかったのがショックで、あの後自分から声を掛ける事が出来なかったけれど。
 彼に自分を思い出して欲しい、という考えを持ってから。幸村は政宗に積極的に声を掛けるようになった。
 もっとも養護教諭である政宗と、健康優良児である幸村の接点は少なく。また教師と生徒でそう会話が続く筈もなく、挨拶をする程度ではあったが。
 それでも。
 いつも元気に挨拶をしていた幸村を、政宗は認識したのか。入学して一ヶ月経った辺りから、たまに遠目に見掛けた際にも、向こうが幸村を認識した時には手を振ってくれるようになった。
 政宗が前世を思い出した様子はないけれど。全くこちらに興味がない風だった入学式の事を考えれば、それだけでも大きな変化と言って良いだろう。
「真田君、伊達先生の誕生日って八月なんだって」
 政宗は、朝は保健室から中庭を見つめている事が多く、幸村は彼に中庭からおはようござりまする、と挨拶をした後教室に入る。
 今日も政宗との挨拶という、幸村にとってある意味日課のようなそれを済ませて教室に入った幸村に、隣の席の女生徒がそんな言葉を投げ掛けてきた。
 入学式当日、幸村を「後ろから見てて女の子が何で男の子の制服着てるんだろって思ったら、髪の長い男の子だった」と評した彼女は、それ以来気さくに話しかけて来る。
 幸村の後ろ髪は彼女の言うように一筋だけだが長い。伸ばし始めたのは記憶を取り戻した中学の時で、前世と同じ髪型にしたいという想いから、だった。彼が自分を見付けやすいように、と。もっとも意味を為さなかったが。
 彼女は幸村が政宗に出来るだけ関わろうとしているのに気付いているらしく、自身が知っている政宗の情報を教えてくれていた。その理由は分からないが、真田君は男の子なのに伊達先生のファンなのか〜と半ば面白がっている様子でもあった。
 その彼女がどの辺りから政宗の情報を掴んで来るのか、幸村には知る由もないが、政宗の事を知る手段を殆ど持たない幸村に、彼女の情報はありがたかった。
 八月の何日かはまだ不明、分かったらまた教えるねと笑む彼女に礼を告げて席に着く。
「そういえばさ」
 視線を教室の窓からグラウンドの方へ向けた彼女が言葉を続ける。
「伊達先生、入学式の時校門に居たけど、先生に花を付けてもらった生徒って居ないんだって。伊達先生に付けて欲しいって言った女子の要望には全部首を横に振ったんだって、面倒だって。あ、一人だけ居たみたいだけど、女の子じゃなくて男の子だったみたい。……先生にとってその子って何か特別なのかなあ」
「……単に気が向いただけでは?」
 入学式の日、幸村は政宗に確かに花を付けてもらったが、そこに特別な意識は全く感じなかった。けれど。
 もし本当に彼が花を付けたのが自分だけならば。それは嬉しいと思った。単に彼の気紛れだったとしても。


「自分から手振るなんて珍しいじゃねえか。超可愛い女生徒から挨拶されても無表情で一応って感じで手振り返すだけの伊達先生がよお。そういや入学式の時花付けてやったのもあの子だっけ?知り合いとかか?」
「いや、向こうはなんかオレを知ってそうだったが、オレは特に覚えはねえ」
「それなのに手振っちまうんだ?」
「懐かれたみてえだし、特に冷たくする理由もな」
「いっつも告白してくる女生徒には冷てえじゃねえか」
「それとこれとは別だ。それにテメエはオレの体質知ってるだろ。後それ以前に教師が生徒の告白を受けれるわけねえだろうが。それに、あれは男だからそっち方面の心配はないしな」
「ん〜」
 政宗の言葉に同僚、長宗我部元親が微妙な声を出す。筋肉質な体で左目に眼帯という出で立ちのこの男は、体育教師だ。 
 元親が何か言いたそうだったから、暫く待ってみたが。しかしそこから特に話は続かず。
「用がねえなら出てけ、ここは休憩室じゃねえ」
 邪魔だとばかりに保健室のドアを親指で示した。
「わーったって、今度また飲みに付き合えよ〜」
「気が向いたらな」
「お、あの子だ。真田幸村つったっけ。体育か、一年は俺の担当じゃねえしな〜」
 元親の視線につられて、校庭側の開け放たれた窓の向こうに目を向ける。そこには確かに幸村の姿があった。
「サッカーか。なかなかやるなあ、あの子」
 運動神経が良いのだろう。グラウンドでサッカーのミニゲームに勤しむ男子生徒の中で、幸村の動きは群を抜いていて。今まさにシュートを放とうとしている所だった。
「あぶねえ!」
 元親が思わず、と言った感じで叫ぶ。
「!」
 幸村を強引に止めようとした男子生徒の足、その靴先が、もろに幸村の剥き出しの膝下に勢い良く刺さっていた。
「ありゃ結構やったんじゃねえの。痛そ」
 幸村は膝を突いて蹲っている。ぶつかった生徒もゲームに夢中になりすぎただけでわざとではなかったのだろう。幸村に向かって必死に謝っているようだった。
「元親、まだ授業はねえな?」
「あ、ああ」
「なら少しオレの代わりに留守番しとけ。すぐに戻る」
「政宗?」
 元親が不思議そうに首を傾げ名を呼ぶが、それは無視して出入り口用のドアとは逆の、校庭側に繋がる小さな扉に向かい外用の靴に履き替える。
 他の生徒なら、放っておいても保健室に訪れるだろうが何となく。真田幸村というあの生徒の事をそう詳しく知っているわけではないが。彼はあの怪我程度では保健室に頼らないのではという気がしていた。かなり痛むであろうに、怪我をさせた相手を気遣う意味でも。
 政宗に懐いている割に、彼は好意を告げてくる女子とは違い、意味もなく保健室を利用するような事は今までなく、その態度には割と好感を抱いていたが、今は保健室での治療が必要な時だ。
「無理に動くな」
「伊達先生!?」
「保健室から派手にぶつかったのが見えたからな」
 案の定、政宗が幸村の近くにたどり着いた時、蹲っていた筈の彼は立ち上がり、ぶつかったクラスメイトに大丈夫と気丈に告げていた。しかしその膝からはかなり流血していて痛々しい。足は震えていて、本当は立っているのもやっとだろう。
「えっ」
 歩かせて保健室に連れていくのは無理だろうと判断して、幸村の背中と膝下に手を入れて抱き上げる。教室からグラウンドの様子を見守っていたらしい女生徒達から黄色い悲鳴が聞こえたが気に止めず歩き出す。単に怪我人を運んでいるだけなのだから。
 腕の中の幸村をちらと覗くと、多分痛みに耐えているのだろう、目尻に涙を溜めていた。その頬が微かに紅い理由は、分からなかったけれど。
「元親、もういいぞ」
「お、おう」
「?真田、どうした?」
 元親の名を呟いた瞬間、腕の中の幸村の体がびくりと震えた気がして尋ねるが。
「何でもありませぬ」
 返ってきたのはそんな答えだったから、特に追求はしなかった。しかし、政宗の腕の中から元親の方に視線を向けた幸村は、どこか驚いているような雰囲気があった。
 元親の方は、そんな幸村の態度に心当たりはないようで、首を傾げていたけれど。
「骨折してねえか先に見るぞ。痛かったら我慢せずに言え」
 ベッドに幸村を下ろし、軽く血を拭き取って負傷している右足に手を添える。簡単に確認してみた所、骨には特に異常はないようだった。
「消毒するからな、染みるぞ」
「はい」
 これだけの怪我なのだ、相当に染みるはずだが、ピンセットで消毒液のついた脱脂綿を膝に塗り付けている間、幸村は殆ど声を上げる事はなかった。
「足の痺れが取れるまで休んどけ。ああ、昼休みが入るな。昼はここで取るか?」
「伊達先生のご迷惑にならないのならば」
「教室まで運ぶ方が面倒だな。どうしても教室で食べてえってなら運ぶが」
「ならばここで」
 幸村は弁当持参派らしい。何故かまだ保健室に残っていて、何やら珍しいものを見たような呆けた表情を浮かべている元親に、幸村のクラスを教え、弁当を取ってきてやれ、と告げる。人使い荒えという文句は、コーヒー淹れてやるの一言で黙らせた。

「もう大丈夫でする。伊達先生、有難うござりました。長宗我部先生にもご迷惑を」
 歩ける程度に回復したらしく、政宗と、元親にも丁寧に礼を告げて去っていった幸村の背中を見送った後。
「何か、やっぱ入れ込んでねえか?あの子に。いっつもグラウンドで誰かが怪我しても、自分から連れに行った事なんてねえだろ」
「別に入れ込んでるわけじゃねえ。ただあの真田の性格じゃ、放っといたら保健室に来ないまま自分で処置しちまうかもしれねえと思ったからだ」
 零された元親の問いを否定する。
「どうだかなあ。ああ、後やっぱ男だから恋愛感情には発展しないって考えは、捨てた方がいいんじゃねえの?」
「?」
「政宗の腕の中に居る時のあの子、政宗に好きだって言ってくる女の子と大差ない表情に見えたぜ?ん、そういえば何で俺の名字知ってたんだ。政宗は元親としか呼んでなかったよな?俺は一年とは殆ど関わり無えのに」
 校内で政宗ほどには有名人でもねえしな〜と途中から恋愛関係の話題からそれた元親に内心小さく安堵の息を吐きながら。
「充分目立つだろ」
 その体格に眼帯とか、と呆れた声を投げ掛ける。
 恋愛、特に本気の恋の話は余り好きではなく、興味もなかった。別に特に今までに大失恋などを経験したわけではない。それ所か二十を過ぎた年頃だというのに、一度も恋と言うものをした事がなかった。ドライな関係を結んだ女性なら今まで複数人居て、今も続いている相手も一人だけ存在しているけれど。


(あんな形でまた政宗殿の腕の中に収まる事になろうとは……)
 放課後、下駄箱を出て帰宅する為に校庭を歩きながら。幸村は政宗に抱えられて保健室に運ばれた事を思い出し、胸の高鳴りを収め切れずにいた。
 体育の授業、サッカーの試合中に怪我を負ったが、ぶつかった相手が蒼白になって謝ってくるのを見て、きっと保健室に行って手当を受ければその間中相手が気にしてしまうだろう、幸い痛みには強い方だからと保健室に行く気はなかったのだが。一部始終を見ていたらしい政宗が幸村を連れに来て。政宗のその行動には驚いたが、彼が自分を見ていて、心配してくれたのは嬉しかった。
 前世で政宗の腕の中、その温度は何度か感じた事はあったが、今日のように抱えられたのは初めての経験、だった。
(昔よりさらに体温が低くなって居られたような)
 彼の体温は昔から、子供のように高いと称されていた幸村よりかなり低いものだったが。今日、この現世で初めて直接触れた彼の温度は、冷たいとすら感じるものだった。もっとも、その冷たさは運動後で火照った幸村の体には、心地良いものだったけれど。
(あ)
 校門の前、生徒に向かって、気を付けて帰れよ〜、寄り道禁止!と声を掛けている教師が目に入る。女子にも人気はありそうだが、どちらかというと男子の方に慕われているのだろう。その教師は数人の男子生徒に囲まれ、帰宅中の生徒への声掛けの合間に、彼らとの会話を楽しんでいるようだった。その姿は昔、海賊の頭領として部下に兄貴と慕われていた姿と重なる。
 西海の鬼、長宗我部元親。
 保健室で幸村の姿に特に反応を示さなかった所を見ると、彼にも政宗と同じく前世の記憶はないのだろう。
(……元親殿は前世と全く印象は変わらぬが、政宗殿はどこか)
 容姿も、話し方も確かに伊達政宗だったが、元親と比べると、今の政宗にはどこか違和感があった。もっともそう思ったのは今日、元親の変わらぬ姿を見てからで。政宗の違和感の正体には思い至っていないのだけれど。
「お、真田、足は大丈夫か?歩けるようにはなったみてえだが、傷はしばらく消毒続けた方がいいぜ。自分でやるのが面倒なら政宗にやってもらえ。多分真田相手なら嫌がらねえだろうし」
 幸村に気付いた元親がそんな声を掛けてくるが、それにご心配感謝致しまする、家に救急箱くらいはあります故、と首を横に振る。
 政宗は嫌がらないと元親は言っていたが、幸村はそうは思えなかった。政宗は仮病や軽い怪我ならば容赦なく保健室を追い出す性格だと、周囲の保健室利用者、大半は政宗ファンの女子だったが、から伝わって来ていたから。
「そうか。っと皆車が入るから左右に分かれて避けろ〜」
 校門の前の大通りから、一大の派手なスポーツカーが校庭に入ってくる。学校に余り似つかわしくないその車は、誰かの迎えだったらしく、すぐに引き返して来た。
(!)
 何とはなしに車の中に視線を向けた幸村は、助手席に座っていたのが政宗だと知り。更に運転している若い女性が何やら気さくな様子で彼に話しかけている声を拾ってしまい。
 怪我をしている足ではなく、胸の奥がずきずきと痛んだ気がした。同時に高鳴っていた筈の心も、沈んで行く。
「失礼致しまする」
「ああ、気を付けてな」
 暫しスポーツカーの行方を見守っていた幸村だが。元親に挨拶をして、校門から出る。
 幸村と同じように車に乗っているのが誰か知ってしまったらしい女子が「えー運転してるの女の人だったよね?恋人なのかなあ、ショック」と騒ぎ出し。早くその喧噪から離れたくて。
 幸村は歩けるようにはなったものの、未だに痛みのある足を気遣う事もせずに走り出した。
「く、うっ」
 無理をして走った事で、途中痛みが増し、転びそうになった所を、道なりに続く公園のフェンスを掴んで耐える。
 幸村は前世の政宗への想いを抱えているが、政宗は前世の記憶自体を持っていない。あの時代、確かに向けられていた幸村への心を、今の彼は持って居らず。幸村には政宗の人間関係をどうこう言う権利などはない。それに。
(大人の男性、なのだから)
 恋人が居てもおかしくはない。むしろ政宗のような男に女の陰がない方がおかしいだろう。けれどそれを認めたくはなく。
 同じ車に乗っていただけで恋人と判断するのは尚早だろうと。幸村は暗く堕ちていきそうな思考を強引に振り払い、今度は足を庇いながらゆっくりと歩きだした。

(どうしたら、もっと近付けるのであろう)
 政宗に記憶がない以上、教師と生徒という関係以上になるのは難しいのかもしれない。けれど。それだけで終わるのは嫌、だった。昔のように彼に自分を見つめて欲しい。その想いは強くなる一方で。しかし、養護教諭の政宗と幸村の接点は当然多くはなかった。
(せめて、彼らのように)
 元親以外にも、幸村との関わりは殆どなかったが前世で見掛けた事のある人物が数人、この学校には存在して。彼らは揃って教師、だった。政宗の隣に並び立つ事の出来る。彼らのように年が近かったら、恋人は無理だとしても、友人にはなれていたのかもしれないのに。
 周囲からすれば、政宗は幸村を気に入っているように見えるらしいがそれでも。
 彼にとってこの身は単なる一生徒だろう。
 前世で彼に強い想いを向けられていた自覚のある幸村には、その事実が辛かった。

「?こんな時間に道場に明かりが?」
 放課後、週番は先生の書類作りを手伝ってくれと担任に頼まれ。かなり遅くなってから教室を出た幸村は、体育館横に設置されている小さな道場、授業の為のもので部活では使用されていない筈のその部屋の窓越しに照明が光っているのを見て首を傾げ。興味を引かれて足を向けた。
 幸村は部活には入っていない。剣道部がないというのが最大の理由だが、それ以外にもこの高校は割と偏差値が高く、部活に夢中になっては勉強をおろそかにしてしまう可能性が高いと考えた為だ。もっとも、剣道部があったならば、勉強との両立を目指しながら入部していただろうけれど。
 政宗と出会ってから、密かに将来の夢として考えているものがあり、その夢を叶える為には、勉強はもっとも優先しなければならないものだった。予習復習をしっかりやって一応、成績は優秀な方に入っている。英語だけは優秀と言うには少し難があったが。
(お邪魔致しまする……!)
 授業にも剣道はなく、道場は柔道の授業を中心に使われているようだったから、生徒の誰かが許可を取って柔道の練習をしているのかもしれないと予想していた幸村だが。
 扉をそっと開けた先に見えたのは、おそらくは私物であろう竹刀を振っている人物の背中だった。その背が、かつての彼が戦場に立っていた姿と重なる。
「……だてせんせい?」
「真田か。まだ帰ってなかったのか。部活には入ってなかったよな?」
「担任の先生の書類作りを手伝っておりました故。あの、伊達先生は剣道をなさるので?」
「今はもう本格的にはやってねえか、ガキの頃習っててな。たまに竹刀振りたくなる時にここ使ってる」
「あ、あの!」
「?」
「お手合わせ、願いませぬか!某も幼い頃から剣道を習って居ったのですが、この高校には剣道部がなく。勿論それは承知の上で入学したのでござるが。先程の伊達先生を見ていて、またやってみたい、と」
 政宗との手合わせ、その機会を逃す事は出来ないと強く感じた。
 もしかしたら、あの時代交わした刃の代わりに竹刀で打ち合えば、彼の前世の記憶、それを刺激出来るかもしれない。自分を思い出してくれるきっかけになるかもしれない、と。勿論純粋に今の彼と手合せしてみたいという気持ちもあった。
「竹刀はあるが防具はねえ」
「構いませぬ!以前も竹刀だけで良くやっておりました」
「結構荒っぽい所で習ってたんだな。OK、丁度相手が欲しかった所だ。っとその前に確認だ。足は完治してんな?」
「勿論」
 幸村が怪我をしたのはもう数週間前で、すっかり治っている。
 生徒相手ということで渋るかもしれないと考えていたが、政宗はあっさりと了承してくれて。
「竹刀、お借りしまする」
「ああ」
 政宗が道場に置いていた予備の竹刀を手に、構えを取った。

「なかなかやるじゃねえか」
(あっ)
 さすがに大人の男である政宗に、まだ子供と言っていい体格の幸村は敵わなかったけれど。
 政宗が浮かべた、唇の端を釣り上げる笑みに、抱いていた違和感の正体を悟った。
(そうだ、表情が違ったのだ)
 かつての政宗は冷静さの中にも熱さを感じさせる人物で。良くこのような不敵とも見える笑みを浮かべていた。特に幸村と対峙する時には。
 この表情を、再会してから今まで見た事が無かった。
 手合わせを終えた今でも政宗が前世を思い出した様子はなかったけれど。
 この笑みを引き出せたのが他ならぬ自分ならば、そう悲観する事もないのかもしれない。
 疲労の余り倒れ込み、乱れた息を吐き出しながら、前世より離れてしまった力量差を悔しいと思いながらも。かつての政宗と同じ笑みを見る事が出来た幸村の心は。
 満たされていた。




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